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2009年2月 2日 (月)

再び沖縄一人旅 (4)-2

首里城公園:

首里城の時代背景について:沖縄県には、沖縄本島(正式名称は、沖縄島(おきなわじま)に36の城(グスク)が、久米島と宮古島に14のグスクが、そして奄美群島(当時は、琉球王国の領土であり、今は鹿児島県に属しています。) に12のグスクがあり、日本の本土にそれぞれの国に藩があった様に、当時の沖縄もそうでした。 それらを尚芭志(しょうはし)が1429年に琉球王国と統一して、初代の王になりました。 1542年に、ポルトガル艦隊が琉球に来航しましたが、明(中国)との交易をし続けていた琉球王国は15世紀になり、形式だけでしたが、君臣関係を結ぶ冊封(さくほう)国となり、その後に、17世紀になり、薩摩藩(鹿児島県と宮崎県の一部で、正式名称は鹿児島藩)の付庸国(ふようこく、保護国より一定の独立的地位を認められているが、外交権など対外主権の一部を宗主国に対して、制限されている国家。)として琉球王国は位置付けられました。 その薩摩藩が琉球王国の財力を吸い上げ、それによって後の明治政府を、薩摩閥と呼ばれた薩摩藩が、長州藩と共に取り仕切る事になります。 18世紀から19世紀にかけて起きた産業革命によって、飛躍的に工業製品が生産された為に、その販売先を求めて、イギリス、フランスやアメリカが新たな市場と植民地を求めていました。 インドを中心に、東南アジアや清(中国)の広大な大陸へは、イギリスとフランスが優位に立っていた為に、米国は、広大な清との交易には、太平洋航路を手中に収める事こそが、米国の利益であり、それを国家戦略として位置づけました。 同時に、産業革命の継続に不可欠な産業の血液であった鯨油が大量に必要になり、米国は、その為に太平洋上で、盛んに捕鯨していていました。 その捕鯨船の蒸気機関用の薪や船員達の食料や飲料水などを補給する基地を設立しなければならない背景が米国にありました。 その為に、1852年11月に、米国のフィルモア大統領の親書(日本開国の指令で、ただし発砲は禁止された)を携えて、1852年3月に、海軍東インド艦隊司令長官に就任したペリ-長官は、バージニア州のノーフォークを出航し、4隻の小艦隊は、カナリア諸島、ケープタウン、シンガポール、香港、上海、琉球、小笠原諸島をへて1853年7月8日に、江戸湾の浦賀沖(神奈川県)に姿を現した為に、この4隻の艦は「黒船」と呼ばれました。 そして、徳川幕府が指定した久里浜(神奈川県、「上陸記念碑」があります。)に上陸し、浦賀奉行に親書を手渡し、開港を要求した後に、1854年1月21日に、物資の補給為に、琉球に戻りましたが、米国の利益の為に、鎖国政策を執っていた徳川幕府に、今度は、強硬に開港を迫る為に、琉球から1854年2月7日に江戸に向かって再び出航しました。 その後に、1854年2月13日に、旗艦サスケハナ号なども加わり、7隻の軍艦で、横浜市金沢区の沖に停泊し、とうとう3月31日に神奈川で日米和親条約を調印させる事に成功しました。 勿論、琉球王国も条約にたいて抵抗しましたが、那覇に再度寄航したペリ-長官によって1854年7月11日に、琉米修好条約を締結させられました。  廃藩置県の政令の翌年になる1872年(明治5年)に、明治政府の強制命令で琉球藩となり、首里城を首都にしていた琉球王国は滅亡してしまいました。 そして、1879年の琉球処分によって、王統の統治権も剥奪されてしまい、日本の本土の一部となった歴史を見続けてきたのが、この首里城で、規模の大きさで異なりますが、中国の紫禁城(きんじょう)とよく似ています。

第二次世界大戦中の沖縄戦で、日本軍よって首里城の下に地下壕に設けられた為に、総司令部は、米海軍の軍艦、ミシシッピ-などからの砲撃を受け、1945年5月27日に首里城の正殿なとが焼失しました。 この沖縄戦で、日本軍の軍人、子供達や婦人達を含む一般人の、沢山の人々が亡くなりました。 その沖縄戦とは、1945年2月に硫黄島を攻略した米軍は、翌月の3月26日に慶良間諸島(けらましょとう)を始めとして、沖縄諸島の各地にも上陸を開始し、同年4月1日に沖縄本島にも上陸し、日本軍と地上戦を繰り広げ、それらの諸島と沖縄本島を占領すると米軍軍政機関として1945年4月5日に、読谷村比謝(よみたんそんひじゃ、嘉手納米軍基地の近くです。)に琉球列島米国軍政府を設立し、1950年12月15日に、琉球列島米国民政府として改組され、長い米国の統治時代になり、沖縄の本土復帰の前日、1972年5月14日に閉庁し、統治時代の幕がおりました。

米軍の当初の計画は、日本の帝国主義に支配された異民族と認識し、占領後には日本から分離独立をさせようとしていましたが、その独立は共産主義に対して戦略的に不利になると、後で判断した為に、米国によって統治されて、本土復帰するまで27年間の歳月が費やされましたが、未だに米軍基地によって沖縄県民が苦しめられています。

学校の歴史の教科書が面白くない原因の一つは、「なぜ起きたのか、当時の背景はどうだったのかなどを、割愛し、何年に何の事件や事変や戦争が勃発したで終わりですから、教科書から歴史の背景や原因を学び取る事が出来きなかったからですが、定年になり、神社仏閣などを拝観し、それらの建立の背景などに、とっても興味が沸いてきます 武家屋敷の床の間に必ず人殺しとそれを防ぐ「日本刀を飾って、武士道」を誇りにする文化がありますが、琉球文化は、床飾りに三線を置きます。「やさしさ」を誇りに持ち、武器を持たず、三線の音楽に愛着を持ち、平和を求める、その琉球文化の伝統を継承しているのが沖縄文化で、そんな文化の背景の違いも、今回の再訪で知る事が出来ました。

2nd_feb_2009 守礼門(しゅれいもん):日本本土にあるお城の門と同様に、首里城にも、その門がありますが、それが守礼門です。 鮮やかな朱色が塗られ、装飾で飾られた4本の柱で支えられ、2重の屋根には琉球の赤色瓦が積まれていますが、沖縄戦で消失した為に、米国統治時代(1945年から、沖縄本土復帰の1972年5月15日までの27年間)の1958年(昭和33年)に再建されました。 守礼門の門の上の看板(扁額、へんがく)に書かれている、「守禮之邦」の意味は、「琉球は守礼の邦と称するに足りる」との事で、相手を尊敬し、自分を謙遜し、丁寧な行いをする事の「礼」は、何時の時代にも個人や国にも大切です。 中国の使節団を迎えるあたり、「守禮之邦」の看板を掲げ、普段は、首里の看板を守礼門にかけてたそうです。 琉球王国の国家として、礼を尽くすのに、小さく同じ様な正殿を建立したと推察されます。中国(明)と君臣関係を結ぶ冊封(さくほう)国となり、明に保護してもらっていたのは、今の日本と米国との関係に似ていますし、薩摩が琉球王国を併合する時に、清朝末期(1870年代~1910年代)の中国に亡命した琉球人もいたそうです。 余談になりますが、英国が借地していた香港が、中国に返還される事が決まった時に、お金持ちの香港人の人たちは、海外に移住をしたそうですが、かなり人達が帰国したようです。  守礼門の近くに、琉球王国時代の約500年前からある沖縄の伝統工芸の染め物で、紅型「びんがた」と呼ばれ、その着物を纏った沖縄美人が有料で一緒に記念撮影をしてくれますが、まだ一度もトライしていません。

2nd_feb_2009_2 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん):2000年12月2日に、ユネスコ世界遺産に登録された旨の石碑が建っていましたが、残念ながら写真を取り損ねましたので、次回にする事にします。(2009年10月に再訪した時にその門の写真を撮りましたので、後日、掲載する事にします。)

2nd_feb_2009_3 昼食:お昼時なので、一度、首里城を離れ、城下の沖縄風レストラン、首里杜(すいむい)に入りました。 紺碧色のグラスに泡盛と氷が入り、椅子の前には、小庭が設けられて、静観な雰囲気の中に身を置く事が出来ました。 ゆっくりと口に運びながら味わう泡盛が五臓六腑に染み渡ると、静かに時が過ぎてゆく贅沢な一時を味わってから、お昼のメニュ-を覗きました。 先出しには、宮廷料理であるラフテ-(豚の三枚肉の皮をとって、直火で焼き、泡盛、砂糖と醤油で、甘辛く濃い味付けで煮る)が出ました。

2nd_feb_2009_4 豆腐とゴ-ヤとのチャンプル定食に決めて、早速戴きましたが、美味しく満腹になり睡魔が襲いましたが、頑張って、又、首里城の見学に行きたいと思います。

2nd_feb_2009_5 歓会門(かんかいもん):再び戻って、勧会門をくぐる事にします。 歓迎を意味する門ですから、その意味でも第一の門になりますが、ここから首里城に入る事になります。 中国の皇帝の使者や来賓客達を歓迎する門です。

2nd_feb_2009_6 その両側には石造の獅子像、「シーサー」が、魔除けの為に設置され、右側のシ-サ-です。

2nd_feb_2009_7 左側のシ-サ-です。

2nd_feb_2009_8 龍樋(りゅうひ):わき出す湧水が龍の口から出ているので、その由来がありますが、この龍の彫刻は1523年に中国から入ってきたモノで、首里城の王の飲料水として利用されていました。 「樋(ひ、おけ)」は、川や泉から水を導く長い管や溝を意味し、棺桶(かんおけ)や手桶(ておけ)など身近な語句があります。 日本本土のお城には、籠城(ろうじょう)に備えて、井戸が多く掘られ、特に城主の飲料水にする井戸は、信頼出来る武士達によって常に警護されていましたが、首里城には、そんなガ-ドマンが必要なかったのかも知れません。 きっと琉球人の人柄がそんな必要が無かったのですが、日本本土は弱肉強食の戦国時代ですから、井戸の番人は必要だった訳です。

2nd_feb_2009_9 瑞泉門(ずいせんもん):これが第二の門で、「瑞泉」とは「立派な、めでたい泉」という意味で、泡盛の銘柄にもなっています。創建は1470年頃に造られたそうですが、沖縄戦で焼失し、1992年(平成4)に復元されました。

2nd_feb_2009_10 万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね):1458年に首里城正殿に掛けられていた銅鐘であったと記録があるそうが、設置場所が不明の為に、レプリカを2000年(平成12年)に製造されましたが、ここに当面設置されました。 本物は、沖縄博物館に所蔵され、万国津梁とは、世界の架け橋を意味し、鐘には「琉球国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である。」の内容が刻まれているとの事です。

2nd_feb_2009_11 広福門(こうふくもん):広福とは、「福を行き渡らせる」を意味し、第四の門で1992年(平成4年)に復元されました。 花祭りの為に、花係の人達が花の世話をしています。

2nd_feb_2009_12 奉神門(ほうしんもん):奉神とは、「神をうやまう門」を意味し、首里城正殿のある御庭(うな-)へ入る最後の門で、1992年(平成4年)に外観が復元され、ここで入場券、大人一人800円の半券が切られて、御庭に入ります。

1_2nd_feb_2009 首里城の正殿:琉球王朝時代の王城が首里城で、城(しろ)を方言で、グスクと言いますが、NHKの大河ドラマ「琉球の風」の舞台にも利用されたとの事ですが、残念ながら、見ていなかったので、詳細は判りませんが、彩色塗装には、桐油が塗られ下地の一部は漆も使用されている二層三階建ての正殿を、何時、拝観しても、朱色をベ-スにして、様々な原色に近い色で飾られた首里城の正殿には、感動しますが、正殿やそれぞれの建物と、城壁も復元されていますが、世界遺産に登録されているのは、琉球石灰岩を積んで曲線によって作られた城壁を持つ「首里城跡」なんです。 その世界遺産として、2000年(平成12年)12月に、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』が、登録され、1. 首里城跡 2. 園比屋武御嶽石門 3. 玉陵 4. 識名園 5. 今帰仁城跡 6. 勝連城跡 7. 座喜味城跡 8. 中城城跡 9. 斎場御嶽の9ヶ所が登録されています。 首里城内の正殿の前の御庭は、様々な行事の会場として利用されていました。 2000年(平成12年)7月21日から23日まで、森元首相の時代に、沖縄サミットが沖縄県名護市の万国津梁館(しんりょうかん)で、開催され、正殿の前で、米国のクリントン元大統領、フランスのシラク元大統領、ロシアのプ-チン元大統領、カナダのクリティエン元首相、英国のブリア元首相、ドイツのシュレ-ダ-元首相、イタリアのアマ-ト元首相、EUのプロディ元委員長と森元首相を撮った写真が、正殿内に、展示されていました。 又、丘陵地に建立されていますので、交易が盛んでもあった那覇港が見渡せ、丁度、首里城内で、花祭りが、2009年1月24日より2月22日まで、開催中で、沢山の人たちが訪れ、中国語、韓国語や地元の子供たちの歓声が、よく聞こえてきます。

2nd_feb_2009edited 首里城北殿内部:おみやげ物の側に、カラフルで粋な傘を見つけました。 御涼傘(うりゃんさん)と命名してある傘は、琉球王が外出する際に使用した傘で、権威と荘厳さを演出したと説明されていました。

2nd_feb_2009_15 王冠:首里城内に展示されている琉球王の王冠ですが、これはレプレカで、本物は米軍により戦利品として略奪され、返還活動も行われている様です 王位の権威を示す為の王冠ですから、美術的にも歴史的にも価値がありますが、私は、あまり権威主義を好みません。

2nd_feb_2009_16 国王が座る玉座:正殿中央の2階には、御差床(うさすか)があり、そこに王が鎮座する、神々しい椅子が展示されていました。 人民の上に立ち、王国の祭り事や外交折衝をする事で、きっと心が休まらない日々を過ごしていたと想像すると、凡人で良かったと思うのです。 1477年~1526年まで在位した尚真王が座った玉座を参考に再現されました。

2nd_feb_2009_13印鑑:当時の王が、様々な公式文書を作成したり、政令を発布するには、必要な印鑑も展示してあります。

2nd_feb_2009_17 久慶門(きゅうけいもん):琉球王朝時代には通用門として主に女性が使用していましたが、上部には木造の瓦葺で出来た櫓(やぐら)があります。

2_2nd_feb_2009_2 今回の再訪の目的は、寒緋桜(かんひさくら)の観賞ですので、お昼を戴く前に、牧志公園の寒緋桜を拡大して撮りました。 寒緋桜は、日本で一番早く開花する桜で、河津桜よりも、さらに濃いピンク色の花をつけます。[最初は、緋寒桜(ひかんさくら)と呼ばれていましたが、彼岸桜と紛らわしいので、寒緋桜という様に学術的になったのでが、未だバスガイドさんや地元の人達は、緋寒桜と呼んでいます。  開花前線が南から北に移動するソメイヨシノとは異なり、、寒緋桜は、外気温が下がると開花しますので、沖縄本島の開花前線は、北から南に南下していきます。 今、本島北部のサクラは、満開に近いですが、まだ蕾の状態のサクラの木もありますから、観賞時期は2週間くらいあります。 ソメイヨシノの花は、花びらがパラパラと散り、花の命の短さく、風が吹けば、花びらが舞いますが、寒緋桜は、椿の花の様に、花が落下しますので、観賞時期が、ソメイヨシノよりかなり長くなります。 寒緋桜の花は、濃い桃色ですから、赤いハイビスカスの様に、情熱的な色ですが、でも、はにかみを見せるように、下向きに咲きますので、沖縄人を表わしている感じがします。 短命で潔く散るソメイヨシノも、先人の詩人や小説家の題材にもなる様に、多くの日本人が愛しています。 私は、桜は、大好きですが、菊はあまり好きではありません。 士農工商の身分制度は合ったけれども、天下太平を築いた葵の時代から、戦を始めた菊の時代になりましたから。

1st_feb_2009 本島南部の那覇市内でも、早い寒緋桜は咲きだしていますが、見頃の時期は、これからで、サクラ祭りも開催されます。 観光客で賑わう「国際通り」の端に、ゆいモノレ-ルの牧志駅があり、その駅側に牧志公園がありますが、その公園に、数本の寒緋桜が植えられて、毎年早く開花しますが、近所の地元の人しか知らない、花見スポットなので、閑静な環境の為に、メジロもせっせと蜜を吸っているのを、昨日、そっと撮影させ貰いました。ミツバチとメジロが共存しながら、寒緋桜の花から花へと、空中バレ-をしているのを、じっと見ているのも楽しい一時でした。

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