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2008年6月

2008年6月30日 (月)

一人旅  九州から帰途します

2008年6月17日より鹿児島、熊本、唐津、佐世保そして長崎と周り2週間の一人旅が終わろうしています。 今朝はゆっくりとホテルを出発して鹿児島発12時15分のANA624便airplaneで帰途につきますが、これ以上連泊しても、だらけるし、脳裏に詰まった沢山の思い出が混乱してしまいますので、2週間程度が、旅の期間として、私とっては理想的と感じています。

さまざまな出会いtoiletがあって、心のふれあいheart03があり、その土地の郷土文化や郷土料理も楽しむ事が出来たのは、国内の交通機関の正確さと安全を保っている多くの人達や平凡で優しい心を持ちながら郷土を愛している、さまざまな人達のお蔭ですし、日本の良さを再認識しながら、それらの事に感謝threemobaqをし、又、放浪に近い一人旅をしたいと思いながら帰宅の途につきました。

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2008年6月29日 (日)

一人旅 長崎から鹿児島

長崎から鹿児島に移動して、翌日に、鹿児島空港airplaneから、九州の一人旅を終えて帰宅の途につきますので、JR長崎駅を午前9時25分に発車する特急「かもめ12号」trainに乗車する為に、3泊した駅前のビジネスホテル、ホテルウイングポ-ト長崎をチェックアウトすると、外は雨rainでした。 大きなス-ツケ-スを引きずり、肩にはパソコンや周辺機器を入れたディバックを担いで、もう一方の片手で傘を差して、3分ほど歩くと、長崎駅のかもめ広場に着き、やれやれと云う心境です。 

車内に乗り込み、荷物を棚に上げて、発車のベルがなると、「長崎よ、有難う 又会う日で」と心で感謝し、どんどんと動く風景を車窓から眺めていました。 そして当特急は、およそ1時間半後に、鳥栖駅(とすえき)に到着し、新八代駅(しんやつしろえき)と鹿児島中央駅を結ぶ九州新幹線bullettrainに接続する、「リレ-つばめ9号」に乗り換え、日曜日でしたが、車内には、乗客がまばらでした。 1時間15分程度乗車しましたが、新幹線を博多方面に延長する工事が進み、高架線路が工事中の状態が車窓から見え隠れしますが、柱のとっても細い印象を受けました。(平時には、問題が無いと思いますが、大地震が襲ったら、柱が耐えられるのか心配です。) そんな心配していると、新幹線の始発駅でもある新八代駅に到着しましたので、又乗り換えです。 新幹線、つばめ9号に移動し、40分ほどで、鹿児島中央駅に到着しまし、更に各駅電車に乗り換えて、鹿児島駅に到着し、鹿児島でのホテルは、前回宿泊したホテルですので、道に迷うことも無くたどり着きました。 ホテル前にある、お店が、生憎、日曜の為にお休みでしたので、新規開拓をしましたが、私にしはずれでしたので、飲んで食べて支払いをして、ホテルに戻りました。次回の一人旅では、大阪から鹿児島まで、直通の新幹線で旅をしたいですが、貯蓄も乏しくなりましたので、値段の安い夜行バスbusを乗り継ぐ旅になるかもしれません。

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2008年6月28日 (土)

一人旅 in 九州・長崎 (12)

長崎シ-ボルト記念館:交通アクセスは、JR長崎駅前の3番系統の路面電車trainで蛍茶屋行きに乗って、新中川町電停で下車し、歩道の小さな脇道地を入って徒歩で約7分で着きますが、今日は、生憎、かなりの雨rainで傘sprinkleを差しながらの散策になり、上着も靴もかなり濡れていますので、早く記念館を探して雨宿りをかねながら、拝観しようと、拝観料、ワン・コインの百円を支払い入館しました。 3階の建物で、1階はホ-ル・ロビ-で、2階にはシーボルトの生涯を6つのコーナーに分けて常設展示され、3階は、企画展示室で丁度準備中でした。

記念館houseの外観は、オランダ・ライデン市にあるシーボルト旧宅を、玄関はシーボルトの祖父のカール・カスパル宅を、イメ-ジして長崎市によって建設され1989年(平成元年)10月1日に開館したとの事です。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(生:1796年2月17日、没:1866年10月18日)は、ドイツ人ですのて゛、ドイツ語の標準語は、ジ-ボルトですが、南ドイツ出身の為に、自らシーボルトと名乗っていたとの事で、フォンは貴族を意味しています。

当時、医学会で、名門だったシ-ボルト家の次男として生を受け、長男と長女は幼くして死去し、父親も1歳時に他界した為に、母方の叔父に育てられ、大学では医学を学び、名門の出身という誇りと自尊心が高かく、33回も決闘をする血の気の多い若者でした。
東洋に強い興味を持ってた為に、1822年7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となり、同年9月にロッテルダムから出航し、喜望峰を経由して、1823年6月に、江戸幕府が鎖国政策をとっていた為に、長崎の出島のみが開港されていましたので、出島内で、オランダ商館医として開業する様になりました。
1824年には、出島外に蘭学を教える為の鳴滝塾を開設し、日本の各地から医者や学者が塾生として参加し、その後、再び故郷や江戸に戻った塾生達が活躍しました。

シーボルト事件として、歴史に残されていますが、1828年に帰国する際に、沢山の収集品の中に幕府禁制の日本地図が発見された為に、国外追放処分を受ける事になりますが、帰国後に、オランダ政府の後援で、日本滞在記の集大成として、『日本(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)』を発刊した為に、日本学についての名声が高まりました。

そして、時は流れ、1854年に日本は開国をする事になり、1858年に、日蘭通商条約が日本とオランダとで結ばれた為に、シーボルトに対する追放令も解除されました。

1859年、オランダ貿易会社の顧問として再度、来日し、1861年に対外交渉の為の幕府顧問となりますが、翌年の1862年に官職を辞して帰国して、ベルリンで1866年10月18日に死去し70歳との事でしたので、当時としては長生きをされたと思います。

沢山の動植物を発見し、日本の地理を詳細に調べあげ、シ-ボルトが作成したそれらのデ-タをどう扱ったかによって、評価が異なると思います。
言い換えれば、日本学としての純粋な学問してか、又は、侵略国家が植民地への戦略本として扱ったのかによって、シ-ボルトの功績の評価が分かれると思いますが、当時の日本の医学会にとっては闇夜に灯をともす、一本の光明であった事は確かです。

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2008年6月27日 (金)

一人旅 in 九州・長崎 (11)-3

長崎のめがね橋:群馬県にも、めがね橋が在る様ですが、長崎に立寄っていますから、一度は見たいと思っていました。 長崎市の中島川に架かる石で出来たア-チの橋は、川の水面に橋が映ると、めがねの形状になりますから、一方側からしか、その「めがね」を見る事が出来ません。 幸いにもくっきりとした、めがね橋を撮る事が出来ましたが、後日、パソコンの故障とバックアップしたハ-ド・ディスクが、写真の量が多過ぎて、パソコンに繋いだ時に、やっぱり同時に故障してしまいましたので、残念ながら、一連の九州旅行の写真を失ってしまいました。 この中島川には、いくつもの橋がかかっていますが、このめがね橋の近くに、有名なカステラ屋があり、この周辺には観光客が集まっていました。
今日は、浦上天主堂、平和公園、長崎公園、歴史博物館とめがね橋などを散策しながら、お参りもしましたので、少し疲れました。 夕方に、立ち飲み屋さんで、焼き鳥を喰いながら、焼酎wineを美味しく戴きましたが、大阪には沢山の立ち飲み屋さんが、昼間から開店していますので、私もお昼を兼ねて、焼酎を1杯戴く事もあり、そんな事を思い出しながら、長崎の夜は過ぎていきました。happy01

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一人旅 in 九州・長崎 (11) - 2 

27th_june_2008__8 歩いていると、浦上天主堂(うらかみてんしゅどう)は、此方の山側からは、小さく見えますが、目を左にやると、民家の庭に、ハイビスカスの花が、綺麗に咲いていました。

27th_june_2008__3 時計を見ると、午前11時半でしたので、早昼にする事にして、喫茶店を探し、入店しました。 アイスココアと、ジャガイモ入りのカレ-ライスで、ココアは普通のインスタントでしたが、カレ-はじっくりと煮込んであり、とっても美味しかったです。

27th_june_2008_浦上天主堂は、一般的にその様に呼ばれていますが、正式名は、浦上教会(うらかみきょうかい、英語:Urakami Cathedral)です。

鎖国政策を実施していた江戸幕府は、例外として、長崎港を開港し、外国人の居留地を設け、江戸時代末期の1864年(元治元年)にフランス人司祭、ベルナール・プティジャンと横浜から来たルイ・テオドル・フューレ神父が基本設計を行い、天草出身の棟梁だった小山秀之進が建設を担当して、1865年にカトリック教会として、日本に現存する最古のキリスト教の建築物でもある、大浦天主堂(天主とはキリストの事です。)が作られた為に、フランス寺とも呼ばれ、日本二十六聖人に捧げられた教会堂です。大浦天主堂の建立を知った当時の浦上の信者達は、大浦に赴任してきた神父と密会をし、信仰の告白をした為に、キリスト教の信仰が公になりましたが、その後の明治政府も、江戸幕府と同様に、キリシタン禁止令を維持した為に、多くの信者達を弾圧し続けました。 その為に、浦上の信者達は、1868年(明治元年)に、明治政府によって、各地に配流されてしまいましたが、1873年(明治6年)にやっとその禁制が解消され、信者達は浦上へ戻り、1879年に小聖堂を築いたのが浦上教会の発端でした。 その後、大浦天主堂から専任の神父が浦上に赴任し、翌年の1880年(明治13年)に浦上の庄屋を買い取り、現在の地に移転し、1895年(明治28年)には大聖堂の建設が始まり、それが完成するまで、20年もの歳月を費やしました。そして1945(昭和20年)年8月9日に、長崎に原子爆弾が投下された事によって、原形をとどめないほど破壊され、沢山の尊い命が犠牲になりました。 もう二度と同じ悲劇が繰り返さない事への戒めと平和祈願の為に、浦上天主堂の一部の外壁や廃墟などを、平和公園に移動して展示されています。1959年(昭和34年)に、 浦上天主堂(浦上教会)が、その廃墟跡に旧天主堂を模して再建され、今に至っていますので、長崎市の浦上は、歴史的な観点からも、カトリック信者達が多いのです。  同教会のドアをくぐると、礼拝する信者さんとキリスト像が、目に飛び込んできて、荘厳な空気に圧倒されてしまい、思わず頭を垂れました。 

27th_june_2008__5 近くの信者さん達に、一礼をして立ち去り、近くに安置されたマリア像を撮らせて貰いました。

27th_june_2008__6 幼子イエスを抱くマリア像です。 信者でないのですが、心が洗われる気がしますので、信仰心の篤い信者さん達は、きっと救われていると思います。

27th_june_2008__7 教皇ヨハネ・パウロ二世の像です。1981年に来日し、2月25日に、ミサ(ミサはカトリック教会でおこなわれる聖体祭儀のこと)を司式されたそうです。

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一人旅 in 九州・長崎 (11) - 1 

27th_june_2008_ホテルウィングポ-ト長崎:朝食は、バランス良く副食を取りそろえて、ご飯と戴きました。 やはり、朝から徒歩で散策しますので、朝食は大切です。

27th_june_2008__2 長崎駅より500m程度歩くと、矢印の付いた案内板が目に留まり、「日本二十六聖人殉教地」と書かれていますので、歴史の古い長崎は、キリシタン(キリシタンはポルタガル語で、英語ではクリスチャンですが、日本語のキリシタンは、カトリック信者のみを意味します。)の街ですし、きっと関係があると思ったから、ちょっと寄る事にしましたが、道路が螺旋の様に曲がり登り切った丘にありました。

27th_juen_2008_ 地図がありましたので、位置関係が判ると思います。 

27th_june_2008__3 織田信長は、仏教の勢力が強い為に、1567年(永禄11年)、カトリック教の保護政策を打ち出しますが、信長の重臣であった明智光秀の謀反で、京都の本能寺に宿泊した信長が襲われ自刃する事になり、その「本能寺の事変」を最終的に収拾したのが、豊臣秀吉でした。 その秀吉が、九州地方がカトリック教化している事や、ポルトガルなどの西洋からの侵略を警戒した為と思われますが、1587年7月24日(天正15年6月19日)にキリシタン禁止令(第一は日本は神国である事を確認し、第二は領主と領民がカトリック教に改宗する事を禁止し、第三は宣教師達が20日以内に国外追放する事でした。)を出しました。 そして、その禁止令がこの長崎の「日本二十六聖人殉教地」に繋がる事になります。 その禁止令から10年後の1597年2月5日(慶長元年12月19日)に6名の宣教師達と20名の日本人キリシタンが大阪と京都で捕らえられた後に、長崎に移送されて、この丘で処刑されました。 その26名の殉教の出来事が欧州に伝わり、265年後の1862年に、ロ-マ法王9世が、殉教者となった26名を聖者の列に加えられ、更にその100年後に、殉教した聖者達について記した石碑を1962年に、この丘に建立したそうで、その石碑には聖者として6名の宣教師達を囲んで20名の日本人キリシタンが並んでいます。

27th_june_2008__4 石碑を拡大すると、6名の宣教師達が左右に並んでいます。 5名が手を合わせ、1名が手を開き説教をされている様に見えますし、頭の後ろには、それぞれの名前が書かれている様です。

27th_june_2008__5 「日本二十六聖人殉教地」の近くには、教会がありましたが、スペイン人の建築家、ガウディを連想する様な祈念碑が建っていました。

27th_june_2008__6 長崎平和公園と浦上天主堂に行く為に、更に歩いていると、大きな観覧車と建設中の大きな建物が見えてきましたが、多目的施設ビルの様で2008年秋にオ-プン予定です。

27th_june_2008__7 浦上駅が見えてきました。

1_27th_june_2008_ 更に歩き続けると、平和公園への入り口が見えてきました。

27th_june_2008__8 平和公園の総合案内板です。

2_27th_june_2008_両側に階段が設けられて、中央部には、花々が植えてありました。

平和公園の総合案内板によると、憩いのゾ-ン、浦上刑務支所跡、平和祈念像、被爆者の店、原爆投下中心地、無縁死没者追悼祈念堂、浦上天主堂通り、新浦上街道、平和の泉、長崎の鐘などが記され、平和への祈りを込めて、諸外国(ドイツ、旧チェコスロバキア、旧ソ連、中国、ブルガリア、ブラジル、キュ-バ、トルコ、アメリカ、アルゼンチン、オランダ、ポルトガル、ポ-ランド、イタリア)から、平和への祈念碑が贈呈され、当園内に建てられていました。 

広島に投下された原爆(濃縮ウラン型)の最初の投下目標地は、広島、小倉、新潟、長崎でしたが、広島が最初に選ばれて投下され、その後すぐに長崎に投下された原爆(プルトニウム型)の最初の投下目標地は、この小倉でしたので、なぜ米国は小倉を選んだのかを、小倉を訪れれば、判るかもしれないと言う思いと小倉城への再拝観が目的の為に、後日(2008年10月)に再訪する事になります。
日本の敗戦が近づくに従って、国内の多くの軍需工場、軍港、製鉄所や大中都市が通常爆弾で破壊され続けて沢山の人々が犠牲になりましたが、広島、小倉、新潟、長崎の空爆を米軍が禁止していたのは、破壊された都市に原爆を投下しては、原爆の威力がはっきりしない為で、悪魔の綿密な計算があった為で、新潟は、中都市の規模の為に、投下目標地から外されました。

1945年年8月9日に、B29の爆撃機が飛来し、その前日に八幡製鉄所(やわたせいてつじょと読み、所在地の地名の八幡は、やはたと読みますが、明治政府が地名を読み間違えたの原因と言われ、建設費は日清戦争で得た賠償金を充てました。)が爆撃され、くすぶり続けた煙が上空にあった為に、原爆投下目標地点であった小倉造兵廠(旧小倉市)が、そのくすぶり続けた煙によって覆い隠された事と、更に、原爆の投下方法が厳しく決められていた為に、小倉の上空で3回の投下を試みて失敗した為に、そのまま長崎まで飛行して、同日に2回目の原爆が長崎に投下されました。

初めて長崎市内を家内と散策した時に、市内に随分と病院の数が多いなぁと感じたが、最初の印象でしたが、原爆の後遺症の為に、苦しんでいる患者さん達の数が多いのも原因と思いましたが、後日、ネットで調べると1950年末までの原爆による死亡者は、広島が約20万人以上、長崎が約10万人以上と推定されています。

27th_june_2008__9 平和公園の入り口の階段を登ると、見えてくるのは、「平和の泉」です。 1945年(昭和20年)8月6日午前11時2分に、原爆が長崎で炸裂した為に、体内まで焼けただれ被爆した人達が、「水を、水を」と叫びながら亡くなった霊に、お水を捧げ、冥福を祈りつつ、世界恒久平和を祈願して、世界平和建設国民会議と長崎市が全国からの寄付によって建設されたとの事です。 平和の泉の噴水は、漢字の八の自の様に、水が噴出していますが、両手を合わせて祈っている事を表しています。

27th_june_2008__11 平和の泉の前に、石碑が建っています。 石碑には、「..........のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面にういていました     どうしても水が欲しくて   とうとうあぶらの浮いたままのみました  -あの日のある少女の手記から」と書かれ、読んでいて目頭が熱くなりました。

27th_june_2008__12 公園内を歩いていると、白ネコが横切り、野良猫の様ですが、逞しく元気に今を生きていますので、将来の不安ばかり抱えて暮らすのは、つまらない事ですよと、教えられた気になりました。 Youtubeには、面白い白ネコがいますので、アクセスして見て下さい。 (http://jp.youtube.com/watch?v=5mxMzKhDdac

27th_june_2008__13 戦災復興記念碑が建っていました。

27th_june_2008__14 ブラジルから贈られた祈念碑です。

27th_june_2008__15 トルコのアンカラ市から寄贈されました。 男女が手を繋いだいる姿は、人類の平和と強調を表しています。

27th_june_2008__16 姉妹都市のアメリカのセントポ-ル市が寄贈した、「地球星座」で、世界平和と連帯を表しています。

27th_june_2008__17 旧ソ連(ソビエト社会主義共和国)が贈った像で、母親が子供を抱えている姿によって、愛と平和を表しています。

27th_june_2008__18 旧チェコスロバキア社会主義共和国の像で、母親と子供の喜びを表していますが、旧ソ連と似通った像にも感じました。

更に各国から寄贈された祈念碑がありましたが、時間の関係で、今回は割愛しました。

27th_june_2008__19 原爆殉難者ノ碑と共に、長崎の鐘の祈念碑がありました。

27th_june_2008__20 長崎刑務所浦上刑務支所がこの丘にあり、煙突1本を残して、全焼し、囲まれた鉄筋コンクリ-トの塀は根こそぎ倒れ、中国人32人と朝鮮人15人を含む受刑者、職員や官舎住居者の134名が即死した、その跡地です。

27th_june_2008__21 平和祈念像は1955年(昭和30年)8月8日に完成し、像の高さは9.7m、台座の高さは3.9m、重さは約30トンの青銅製で、神の愛と仏の慈愛をイメ-ジし、天空に高く上げた右手は、原爆の脅威を表し、水平に延ばした左手は、平和を表し、目を閉じた姿は原爆犠牲者達の冥福を祈っています。 1844年(明治17年)に、長崎県南島原市に生まれた彫刻家、北村西望(きたむらせいぼう)によって5年ほどかけて造られました。

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2008年6月26日 (木)

一人旅 in 九州・長崎 島原 (10) - 2 

島原城天守閣は、一階にキリシタン資料、2階に郷土資料、3階に民族資料を展示している資料館で、1624年に、初代城主の松倉重政(まつくらしげまさ)が島原城を完成させた後、4氏が城主を交替し、最後の城主は、15代将軍になった徳川慶喜の弟の松平忠和(まつだいらただかず)とパネルに説明されていました。

1_26th_june_2008_ 写真に写っている晩年の松平忠和は、軍服の様な服を着用し、チョンマゲを切り、明治維新の始まりを告げる様な感じを受けたのは、歴史の背景に、1868年に明治政府が始まり、1871年(明治4年)に明治政府が廃藩置県を発令された為に、島原藩は、島原県となり、その後に長崎県に編入されたそうです。

26th_june_2008_ 島原藩の鉄砲と大砲が無造作に展示されていました。

26th_june_2008__2 天守閣から見た、西の櫓です。

26th_june_2008__3 左手の下に、部分的に西の櫓が見え、島原の街が広がり、その後ろにある手前の山が、雲仙岳の一部の眉山(まゆやま、標高819m)で、その後ろに、平成新山(へいせいしんざん)が見えますが、火山活動の為に1990年から5年間かけて、形成された新山で、此方の山の方が高く、標高が1482.7mとの事です。

26th_june_2008__4 写真のほぼ中央に写っている島原駅の後ろには、広大な島原湾が広がっています。

26th_june_2008__5 島原城内には、長崎平和公園に建っている「長崎平和祈念像」を制作した彫刻家で、長崎県南島原市の出身の北村西望(きたむらせいぼう、本名:きたむらにしも)さんの作品を展示している、西望記念館がありましたが、もうずぐ閉館時間になりますので、拝観を割愛しました。

_ 彼の作品である、天草四郎の銅像が立っていました。

26th_june_2008__8  午後5時を回りましたので、鐘を叩いていますが、お寺の鐘の様な響きでした。

26th_june_2008__9 お堀には、ピンク色の綺麗な蓮の花が咲き乱れ、蓮の葉の緑色によって、更に蓮の花が浮かびあってきます。

26th_june_2008__10 島原城を後にして、島原駅に戻り、駅の構内です。

26th_june_2008__11 車窓から、風力発電機が見えましたが、沢山増えると炭酸ガス排出を減らす事が出来ますね。

26th_june_2008__12 干拓された水田から採れた、お米を「いさはや米」として販売する為に、JAの保管倉庫には、そのお米の品名が、大きく表示してありました。 

26th_june_2008__13 島原に行く時に、諫早駅で島原鉄道への乗り換え写真を取り忘れましたので、帰りに撮りたいと思っていましたので、写真を撮りました。 島原鉄道の帰りの車両の車体は、鮮やかな黄色に塗られていましたので、とっても目立ちますが、その車両が諫早駅に到着しました。

そこで諫早駅で乗り換えて、JR長崎駅まで帰り、途中で夕食の為に、Y家に立ち寄りました。 

1_26th_june_2006_ 目の前に出された豚鮭定食の豚肉に赤いガリをかけて、戴きますが、店内にコバエがかなり飛んでいます。 東南アジアでは珍しくありませんが、国内のお店では、初めての体験です。 勿論、ゴミの管理の悪さが原因ですが、追い払いながらの食事です。

 

2_26th_june_2008_ そうしたら、なんと逆襲でしょうか、みそ汁に、虫がつっこんで、特攻隊の攻撃を受けてしまいました。

 

3_26th_june_2008_ テ-ブルに留まった、異なるコバエが、私を見ているのも知れません。(笑) バイトの子を呼んで、店長に厳しく注意し、彼の陳謝を受け入れ、代金不要の申し出を断り、お店を出ました。 不衛生で、整理整頓が出来てない証拠で、店長は、私生活か、売り上げに頭を悩んでいるかもしれませんが、衛生管理がおろそかになっています。 O-157などの食中毒は、衛生管理の不適切さによって発生しますので、コバエの事は小さな事ですが、まぁ、そんな気持ちから、厳しく注意をした訳です。

先日、喰い放題のお店で、私の誕生会を家族がしてくれ、焼き肉を食べようと、口に入れたら、変な味がしますので、汚いですが口から出しました。

念の為に、残った、ラムと牛肉を、タレをつけないで、そのまま食べてみましたが、問題なく美味しいのです。

同じタレを娘も使っていましたが、私はそれに、ニンニクのおろしをそのタレに入れていました。

そのタレを残して、醤油で、残ったラムと牛肉を全て食べましたが、もしかしたら、ニンニクが傷んでいたのかもしれませんが、はっきりしませんので、そのままお店を出ました。

マレ-シアの一人旅で、クアラ・ルンプ-ル(KL)のチョウキット市場に立ち寄りましたが、その付近の食堂では、私の体力では食中毒になる不安もありましたので、遠慮しましたが、ブキッピンタンの屋台では、大変美味しく戴く事が出来ましたし、ペナン島もマラッカも訪れましたが、美味しく戴く事が出来ました。

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一人旅 in 九州・佐世保 長崎 島原 (10) - 1 

26th_june_2008__2  佐世保ワシントンホテルの朝食:昨日の夜のスナック、「くろうま」さんで、焼酎を飲んでいますので、二日酔いもなく、ホテルのバイキング・スタイルの朝食を美味しく戴く事が出来ました。 今日は佐世保より長崎まで移動し、長崎駅前にある宿泊先のホテルに荷物を預けてから、その後に長崎から島原まで足を伸ばして、再び長崎に戻る予定です。

26th_june_2008__3 JR九州の大村線長崎駅行き快速列車が、2番線のホ-ムから午前10時30分に発車しますので、それに乗車しますが、ホ-ムで待っていると、いつものコバルト・ブル-の車体に、「SEA SIDE LINER」(シ-サイドライナ-)と書かれた、大村湾の海岸を往復する車両が滑り込む様に入線してきました。 

26th_june_2008__4 ハウステンボス駅の次が、川棚駅(かわたな)です。

26th_june_2008__5 その駅を過ぎて車窓から、大村湾に向けてシャッタ-を切りましたが、あまり写りが良くありませんでした。 大村湾には、湾内の箕島(みしま)を開発し箕島大橋を架けて造った、海上空港である長崎空港があります。 

余談ですが、長崎空港では、B滑走路が民間用で、A滑走路は海上自衛隊と第22航空群が大村航空基地として使用していますが、数年前に家内と一緒に長崎見物の為に利用した事があり、家内と長崎の街を散策した時に受けた強い印象は、街には沢山の病院があり異国情緒にあふれた街として映りました。 病院の数の多さは、やはり原爆の後遺症で苦しんでいる人達が多く暮らしている事を物語っていると感じ、出来れば長崎を再訪し、どの様な事が過去に起こったのか、自分の目で確かめたかった気持ちもありました。 

大村湾は東西に細長く、西の湾口は、ハウステンボスから佐世保湾に繋がり、その佐世保湾は、東シナ海に繋がっています。又、東の湾口は早岐瀬戸に繋がっているいますが、どちらの湾口の幅が狭い為に、湾口部の潮流は大きいですが、湾奥部では、湖の様に静かです。

26th_june_2008__6 JR九州・大村駅(おおむらえき)では、学校の行事の為か、或いは、中間試験の為かは、不明ですが、学生さん達がホ-ムにいましたし、観光客や地元の人達もいました。 ここから長崎空港行きのバスも発着しているJR九州の大きな駅です。

26th_june_2008__7九州・大村駅から、岩松駅を通過すると、諫早駅(いさはやえき)に到着しました。 この駅は、JR九州と島原鉄道が共同管理していますので、島原鉄道は0番線から発着しますが、長崎駅に先に立ち寄るので、そのまま長崎駅まで、直行します。

26th_june_2008__8 長崎駅構内に展示してあった、御朱印船の模型で、三菱重工(株)長崎造船所の制作との事で、御朱印船は、昔、長崎から、ベトナムやマカオまで往来したと看板に説明されています。

26th_june_2008__9 JR九州の長崎駅です。

26th_june_2008__10 長崎駅の改札口を出ると大きな広場が広がっています。

26th_june_2008__11 その広場を進むと、駅前には、路面電車の停留所になっています。 多くの大都市では、自動車の交通を最優先させた為に、路面電車を廃止してしまいましたが、SLと同様に、路面電車の地位も上がってきました。 街中をゆっくり走りますので、旅人の散策には、最良の乗り物ですし、大抵の場合、乗車料金も低く設定されていますので、市民は勿論の事、旅人も利用しやすく、自然環境にも優しい乗り物として位置づける事が出来ます。

26th_june_2008__12 お昼になりましたので、荷物を持ったまま、駅に近い中華料理店の、のれんをくぐりました。 お昼時なので、店内は混雑し、注文を取りながら、料理をテ-ブルに運んでいる、おばちゃんの機嫌は良くありませんでしたが、本場の長崎チャンポンは、あっさりした豚骨ス-プにいろいろの食材がチャンポンなっています。 上手かったので、又、機会があれば、立ち寄りたいと思いながら、料金を支払い、道路を渡ると、本日から宿泊するホテルがありますので、荷物をフロントに預けました。

再びJR長崎駅に戻り、諫早駅で降りて0番線に移動して、島原鉄道に乗り換えました。 島原鉄道は、今年で100周年だそうですが、火砕流事故を起こした長崎県雲仙市の雲仙岳や、天草四郎らの島原の乱や、島原城に思いをはせながら、車窓を眺めています。 諫早駅で島原鉄道への乗り換え写真を取り忘れましたので、帰りに撮りたいと思います。 島原鉄道の私の下車駅は、島原駅なり、海岸線を走りますので、諫早湾干拓予定地、有明海や、島原湾が車窓から見えると思います。

26th_june_2008__14 島原鉄道の愛野駅を過ぎた辺りで、諫早湾干拓予定地が車窓から見えてきました。 有明海の海水を堰き止めて行う、諫早湾を干拓する事業が頓挫しています。 米作の増産とゼネコンの為の干拓事業は、自然環境を破壊してまで、必要無いと思いました。 

26th_june_2008__15 その有明海が車窓から見えています。

1_26th_june_2008_ 有明海と島原湾は、繋がっていますので、どこから線引きされているのか、判りかねますが、もうすぐ、島原駅に到着しますので、この写真は、島原湾です。

26th_june_2008__16 島原鉄道の島原駅(しまばらえき)の駅舎で、お城や櫓(やぐら)の様な白壁作りになっています。

1_26th_june_2008__2 当駅から少し歩くと、島原城が目に入ってきます。 西の櫓が石垣にしっかりと建立され、その後ろに天守閣が見え、手前には、蓮の葉がお堀を覆っています。 肥前の国(ひぜんのくに、佐賀県と長崎県)の島原城(地名が森岳ですので、別名森岳城とも言われています。)は、現在の所在地は、長崎県島原市になっています。 1624年に、松倉重政(まつくらしげまさ)が島原城を完成させる為に、過重な年貢の取立てをし、豊臣秀吉の時代から、徳川政権の時代に、禁教政策を継承した事によって、厳しくキリシタン(カトリック教信者)が弾圧され、更に、松倉重政の嫡子(家督相続を継ぐ子)であった、松倉勝家(まつくらかついえ)も、そのまま父からの圧政を継承し、キリシタンを更に弾圧した事と、飢餓も加わり、ついに1637年に島原の乱として、一揆が勃発しました。 37,000人の一揆軍を指揮する天草四郎と、125,800人の江戸幕府軍を率いる、松平信綱(まつだいらのぶつな)とが、一国一城令で廃城となった原城にて戦い、一揆軍は、山田右衛門作を除き全滅と伝えられています。 様々なな歴史をじっと見守ってきた島原城は、明治維新になり廃城になりましたが、市民の強い熱望により、本丸に天守・櫓・長塀が復興されて、現在は、城跡公園になっています。

2_26th_june_2008_ 先ず、天守閣の荘厳さをカメラに納め、同じ敷地(本丸)にある、売店で、間食にしました。 

26th_june_2008__18 平日の為に、拝観者も少なく、売店は、私の貸し切り状態でしたが、そうめんを戴きましたが、あっさりして美味しかったです。

26th_june_2008__19 西の櫓の正面写真で、石垣にそびえ立つ同じ櫓ですが、正面は女性らしい優しさがあります。

26th_june_2008__20 近くには、お城の鐘があります。

 

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一人旅 in 九州・佐世保 (9) - 4

宿泊した佐世保ワシントンホテルの前にあるスナック、「くろうま」さんのお店に、初めて立ち寄りますので、どんなマスタ-さんか、ママさんに合う事が出来るか、少し不安でもあり、楽しみでもあり、そんな複雑な思いで、そのお店の扉を開いたのが、午後6時前でした。 

お店の前に置く広告スタンドには、もう火が点っていたので、開店している雰囲気でした。 

1_25th_june_2008_ 芋焼酎は、香りが強い為に、お店に置かない方針との事で、お店と同じ名前の銘柄の麦焼酎、「くろうま」を頼んで、突き出しは、烏賊に酢みそがかけてあり、頼んだ刺身は、ハマチとホタテの貝柱で、鮮度が良く美味しい買ったです。

25th_june_2008_ マスタ-さんの以前の職業は船長さんで、長くされていましたが、船主さんの新しい経営方針を受け入れる事は、長い船長経験から受け入れる事は出来ない為に、陸(おか)に上がったそうで、スナックも船も水商売だからと、思い、たまたま空き家だったこのスナックを借りて、「水」商売を最近始めたとの事で、そんな身の上話を聞いていましたら、どんどんと親しみが湧いてきました。 昼間もお店を開けて頑張っているマスタ-ですが、ちょっと飛ばしすぎです。 私のブログの話をしましたら、喜んで協力して貰いました。

25th_june_2008__2 野菜も摂らなくてはと思い、トマトを頼み、完食です。

2_25th_june_2008__2 カラオケ教室に通っている生徒さんも後から、一緒に加わり、同じ世代同士でもあるマスタ-さん、生徒さんと私で、沢山唄を唄い、楽しい一時を過ごす事が出来ました。

25th_june_2008__3 12時を回ってしまったので、ホテルに戻りますが、マスタ-さんが、わざわざお店の外まで見送りしてくれました。

マスタ-さん、今夜は楽しい一時を過ごさせて頂き、又美味しい料理を戴き有り難う御座いました。threemobaq

明日は、島原に立ち寄って、長崎のホテルに宿泊する予定です。

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2008年6月25日 (水)

一人旅 in 九州・佐世保 (9) - 3

1_25th_june_2008__4 長崎県佐世保市ハウステンボス駅前側にある生ビ-ルレストラン、ビアゾンは、当駅から道路を隔てた、向こう側にあります。 生ビ-ルの大きな看板が目に留まり、お昼を食べに直行です。 

2_25th_june_2008__5 隣のレストラン、ロ-レライとは、繋がっていて、単品料理は、此方のレストランですが、バイキングは、ビアゾンでしたので、此方に入店しました。

1_25th_june_2008__5 ウエイトレスさんが、席まで案内してくれ、早速、「地ビ-ルを」お願いしましたが、彼女は、「申し訳御座いませんが、今は取り扱っておりません。 以前に来店されましたか?」と愛想良く答えてましたので、 「多分、此方でも上手い地ビ-ルが呑めると思い訪ねた訳で、ちょっと残念ですね」と話を繋げぎました。 そんな何気ない会話も一人旅の楽しみでもあります。 それで大手の生ビ-ルが運ばれ、お皿には、ナスの油炒め、オクラのごま和え、揚げ餃子、シュウマイ、揚げ豆腐、竹の子、きんぴら、タコとキュウリの酢の和え物、こんにゃくを載せました。

2_25th_june_2008__6 美味しいので、更に次の料理を戴きました。 スパゲティ、トマト、ピザとフランスパン、鶏の唐揚げ、キャベツとピ-マンの油炒めと、ビ-ルで、満腹になりました。

25th_june_2008__7 JRハウステンボス駅に戻り、ワンマンカ-(Sea Side Liner)に乗り、JR佐世保駅まで帰りました。

25th_june_2008__8 JR佐世保駅駅周辺の景色です。

25th_june_2008__9 ワンマンカ-(Sea Side Liner)と同じコバルトブル-に塗られた、バスを発見し、九十九島巡りに出かける事が出来る様です。 宮城県の松島の様に、此方の佐世保港にも、西海国立公園内にある、九十九島(くじくしま)と呼ばれる島々があり、観光船に乗る為に、佐世保駅前から、シャトルバス(大人230円)が運行し、25分程度で到着しました。

1_25th_june_2008__6 九十九島巡りの白い大型遊覧船が、行き交っていますので、観光する事にしました。 実際の島の総数は208あるそうですが、勿論九十九は、例えで数え切れない事を意味します。

2_25th_june_2008__7 赤い色をの大型遊覧船も入港してきました。

25th_june_2008__10 遊覧船の発着場所の側には、沢山のヨットも停泊していますので、佐世保にも優雅な人生を送られている人達が多い事が判ります。

25th_jun_2008__2 私が乗船した、白い大型遊覧船のマストから、写真を撮りました。 もう一本のマスト越しには、船着き場が見えます。 

25th_june_2008__14 その船着き場を離れ、島巡りの始まりです。 魚の養殖場らしき丸い「いけす」が作られ、ご当地では有名な、ライオンが寝そべっている様な姿をした、横島です。

25th_june_2008__12 船内では、エアコンで冷房されていますので、船内見学です。 お土産様用の売店と、軽食用の売店がありましたので、早速生ビ-ルとつまみを買い求めましたが、まだサ-バ-の準備が整っていませんので、椅子に腰掛けて、船窓から島々の景色を楽しみます。しばらくすると、売り子さんが、生ビ-ルを運んで来てくれました。 焼きあごのつまみで、此方では、トビウオをあごと呼びます。 甘辛い薫製でしたので、甘くないつまみがよかったですが、でも結局はビ-ルを呑みながら全部戴きました。 

25th_june_2008__13 有名な田崎真珠が作られる養殖場が見えてきました。

2_25th_june_2008__8 海が穏やかですので、真珠、牡蠣や魚の養殖も行われ、海の幸がそれぞれの市場に出荷されています。

25th_june_2008__15 生ビ-ルを飲みながら、船窓から漁船が見えましたので、手をふりましたら、それに気づいて、漁師さんが手を振って挨拶を返してくれました。 心が通う一瞬でもありました。

1_25th_june_2008__7 海鳥達がそれぞれの島に生息し、貴重な草花も多く残っている様ですが、松林が多く見受けられました。 そして青海と岩肌を出した島々光景は、素晴らしかったです。

2_25th_june_2008__9 小さな島ですが、しっかりと松が茂っており、絵になる光景です。
50分程度でしたが、良い思い出になり、下船支度をしました。

又、シャトルバスで、JR佐世保駅まで戻って、ホテルで一休みです。

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一人旅 in 九州・佐世保ハウステンボス (9) - 2 

25th_june_2008_ 長崎県佐世保駅から大村線に乗って、ハウステンボス駅まで、出かけます。 駅構内の列車案内板には、快速のワンマン電車の発車時刻が表示されていますが、午前10時半の電車に乗ります。

1_25th_june_2008_ 快速電車のワンマンカ-が入線してきました。

2_25th_june_2008_ そのワンマンカ-の側面には、SEA SIDE LINERと英語表示されていますが、定期海岸線と言う事ですかね。 海の色のイメ-ジで車体は、青色になっています。

25th_june_2008__2 佐世保駅から4番目の駅がハウステンボス駅てすが、思ったより小さな駅舎でしたが、はり煉瓦造りで、洒落た造りになっています。

25th_jne_2008_ ハウステンボス駅は二階に造ってありますので、可愛らしい改札を出ると、そのまま大広間に繋がり、それがハウステンボスへと続いています。 今の時刻は2008年6月25日、水曜日の10時51分ですが、当駅で下車した観光客は、まばらで、大きなお城の様な建物は、ハウステンボスジェア-ル全日空ホテルで、最近建設された浦安の東京デズニ-リゾ-トのホテルをイメ-ジする建物です。

25th_june_2008__8長崎県佐世保市にある、ハウステンボスは、他の県にもある様なテ-マ・パ-クで、そのテ-マはオランダの町並みを再現した公園造りですが、欧州のデザインも取り入れている様です。 ハウステンボス(Huis Ten Bosch)は、オランダ語で「森(Huis)の家(Bosch)」の事だそうで、オランダの女王が住んでいるハイステンボス宮殿(Paleis Huis ten Bosch)を再現した事から名付けられたと説明されています。 長崎県の大村湾に面した広大な敷地(開発面積は152ヘクタール(46万1干坪)で東京ディズニーリゾートと同程度の敷地)を、最初に長崎県が、工業団地として開発しましたが、どの県でもある、官庁による経営が失敗した為に、長崎オランダ村株式会社(当時)がテ-マ・パ-クの企画を立案して、その跡地を買い取、先ずその広大な地域土地改良をし、堆肥も充分入れ、植林と花を植え、そして運河も造り、多大な費用を費やし、1992年3月25日にやっとオ-プンしたとの事です。 ですが、経営不振で2003年に会社更生法を申請し、その後、紆余曲折があり現在経営再建中の様でした。

25th_june_2008__3 ハウステンボスジェア-ル全日空ホテルです。

25th_june_2008__4 ハウステンボスの正面入り口です。

25th_june_2008_1_ 切符売り場ですが、入園料が高額の為に、迷ったあげくに、本日は、入園を見送りましたが、夏場料金や予約料金は安くなっている様です。

25th_june_2008__5 正面入り口から、運河と遊覧船と風車見えて、とてもオランダのイメ-ジが良く出ています。

25th_june_2008__6 切符売り場の周辺には、花々が咲いていましたが、ミツバチと小さな綺麗な花で、「アカバンサス」です。(後日、某SNSで花の名前を教わりました。)

2_25th_june_2008__2 菊の様な黄色の花が、鮮やかに咲いていました。

25th_june_2008__7バラも咲き、艶やかなピンク色で、風が強く、花が揺れていました。

1_25th_june_2008__2 山桃の木もハウステンボスジェア-ル全日空ホテルの近くに、植えられて、大きな実がなっています。

2_25th_june_2008__3 もう熟し始めましたので、そまま生の実を戴く事が出来ますが、梅酒の様に、山桃酒として楽しむ事が出来ます。 淡いピンク色の山桃酒になりますので、グラスに注ぐととても綺麗です。

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一人旅 in 九州・佐世保 (9) - 1

25th_june_2008_ホテルのバイキングで、何時もの和食で、朝の納豆が何よりのご馳走です。

25th_june_2008__2 佐賀県佐世保市ポ-トサイドパ-クは、JRとMR(松浦鉄道)佐世保駅から佐世保湾に向かって徒歩で数分の距離の位置にあります。 今日は、岸壁に、水産庁所属の大型船が停泊していましたが、海洋調査した後に、次の出航の為の準備をしている様でした。

25th_june_2008__3 岸壁から海を覗き込むと、海水にクラゲが泳いでいます。   このタイプは刺さないと思いますが、子供時代に海水浴にに行くと、この種のクラゲが泳いでいましたので、友達と投げ合って遊んだ事を思い起こしました。

25th_june_2008__4 その公園には、鯨の雄姿さを表現した池もありました。

25th_june_2008__5 そこから左に目を向けると、海上自衛隊の基地に自衛艦が入港していました。

25th_june_2008__6 右手には、佐世保の米軍基地があり、鉄条網には、例の青色の警告板が貼ってあります。 
その米海軍基地の警告板には、「WARNING  U.S. Navy  Area  Unautholized  Entry Prohibited 」(直訳:警告 米海軍地域 許可が無い場合は進入禁止)日本語で、「米海軍基地です 許可なく立ち入る事を禁じます。」と英語と日本語で書かれていました。 
参考までに、沖縄県那覇の警告板は、鉄条網の向側に張ってあり、外からその内容が読める様にした、警告板で、 それには、「US ARMY FACILITY  UNAUTHORIZED ENTRY PROHIBITED AND PUNISHABE BY JAPANESE LAW」 (直訳:米軍施設 許可が無い場合は進入禁止そして日本の法律で罰せられる。) 日本語では、「米国陸軍施設 米国用地に無断立ち入ることを禁止する。違反者は日本国の法律に依って罰せられる。」と英語と日本語が書かれていました。 それぞれの警告板の内容の微妙な差は、沖縄故なのか、それとも、米国陸軍と海軍の差なのかは、判りませんが、その微妙な差がある事は確かです。

25th_june_2008__7 その米海軍基地内に、米海軍の軍艦が停泊している様に見えました。

25th_june_2008__8 でも、上の写真の軍艦の船尾を更に撮って、後で気が付いたんです。 朝日のマ-クの様な船旗が小さく写真に写っていましたので、その部分を拡大してみると、何と、その艦の船尾に自衛艦旗(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E3%81%AE%E6%97%97)が掲げられていました。  自衛艦が米海軍基地内に停泊している思われますので、本当にびっくりしました。 そして、その後ろには、佐世保重工業(SSK)のドックがあり、赤い船体をした商船が停泊していました。 米軍と自衛隊の合併化が進み、自衛隊の司令本部も米軍基地に移動している、証の一つで、ハイブリッド軍隊(ガソリンと電気のハイブリッド車と同じで、状況に応じて使い分ける)と呼んで良いと思います。 

25th_june_2008__9 ちなみに、観光案内板の地図を見ますと、道路を挟んで、米軍基地と海上自衛隊佐世保地方総監部の建物がある事が判ります。 それに自衛隊の病院も隣接していますね。 大きな自衛艦も停泊している 海上自衛隊の基地が、この地図ですと、右手の方にあります。 総監部の建物は米軍地側ですので、いろいろの軍事設備が米軍と自衛隊との間で、道路を隔ててラインで繋がっている様な解釈をすると、理解が出来ます。

25th_jun_2008_ 海上保安庁の巡視艇ですが、不審船などは、二台目のモ-タ-とスクリュ-を付けて遁走しますから、追いつかないのが現状ですから、改善が必要の様です。

25th_june_2008__10 佐世保駅構内に、独楽が展示されていましたが、喧嘩独楽としての佐世保独楽は、長崎県指定伝統的工芸品に指定されています。

25th_june_2008__11 SASUBO名物の佐世保バ-ガ-の看板も駅構内にあり、市内には沢山のバ-ガ-店が点在している事が判ります。 私は、メタボ容姿なので、食べる事は遠慮しましたが、お互いのお店が競争していると思いますので、きっと美味しいと思います。

25th_june_2008__12又、駅構内には、「貧乏神が去る像」の石像があり、まず貧乏神をなでた後に、頭部に乗っている猿をなでると
貧乏が去る(猿)と言うだじゃれの石像で、そんなだじゃれでも、かなり汚れているので、多くの人達がなでたと思われます。

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2008年6月24日 (火)

一人旅 in 九州・有田・佐世保 (8) -(4)

24th_june_2008_松浦鉄道の伊万里駅から有田駅までのワンマン・カ-です。 外観は少しくたびれていますが、それも風情があって良いですね。

2_24th_june_2008_ 車内は、ずっとデラックスで、座り心地の良い椅子でした。

24th_june_2008__2 有田駅は、丸い屋根と三角の屋根を乗せた駅の組み合わせになっていて、とてもしゃれた造りになっています。

1_24th_june_2008_ 橋の欄干に、古伊万里(近代に造られた伊万里焼きと区別する為に、古い焼き物を特に古伊万里と呼ぶ様になりました)の壷の複製が飾られています。 磁器の発祥の地が有田で、それらの焼き物が伊万里の港から長崎の出島まで搬送され、そこから欧州に運ばれた為に、伊万里焼と呼ばれる様になり、それらの古い焼き物は古伊万里とも呼ばれ、鮮やかな色彩で花々が描かれています。

2_24th_june_2008__2 約90度回った位置から再度、同じ壷の写真を撮りました。

24th_june_2008__8 駅前には、15店舗の焼き物があり、その案内図です。

24th_june_2008__3 一時間ほど有田駅周辺を散策して、駅前の焼き物店で、一輪刺しの焼き物を買いました。 渦巻きの芯に一輪刺して、小皿に水を注いで飾る事が出来ます。 切り花を花瓶に飾っていると日にちが過ぎる毎に、枯れて来る様になりますし、その都度、茎を何回も切り続けますので、花の全体が短くなりします。  そうすると廃棄処分に成る訳ですが、それらの花の中から、長持ちしそうな一本を選んで一輪刺しに生ける事が出来ます。

24th_june_2008__4 有田駅構内には、大きな布製の幕が、駅構内に張ってあり、それには、有田が、日本磁器発祥の地と書かれていました。

24th_june_2008__5 有田駅から佐世保駅に行く、ワンマン・カ-が入線して来ました。

24th_june_2208_ 車内の椅子は、木製の板と皮らしき物が使用されて、少しゴ-ジャスな感じでした。

24th_june_2008__6 三十数分間乗ったら、佐世保駅に到着しました。

24th_june_2008__9 佐世保ワシントンホテルでの部屋飯(夕食)を買う為に、駅のス-パ-に立ち寄りました。 トマト、鰯の竹輪、オクラの煮付け、さじらの刺身、握り寿司、納豆をお茶で戴き、明日は各地の散策ですので、早めに床に付きました。

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一人旅 in 九州・唐津・伊万里 (8) - 3

24th_july_2008_昨日、飲み屋さんのママから譲り受けた伊万里焼きの様な二枚の皿を写真に撮る為に、梱包を開きましたが、とても気に入っています。 (後日、自宅に持ち帰り、皿を水洗いしていたら、古い小さなヘア-・クラック(ヒビ)を家内が見つけましたので、残念ながら一枚は廃棄処分をしましたが、もう一枚は、頻繁に利用しています。 それと、実は、伊万里の陶器店に立ち寄った際に、この写真をそのお店のご主人に見て貰い、品定めをして貰いましたが、伊万里焼ではないと事でした。 その理由は、黄色が使われていないので、瀬戸内海で作られている、「瀬戸物」との評価でしたので、確かに価値は低いかも知れませんが、気に入った焼き物でしたので、それで充分です。) それと、昨日のカラオケ・スナックで頂いた、テ-プです。

24th_june_2008__20 唐津シティホテルの朝食は、最近戴いた朝食の中で、最も豪華でした。 メヌケ(赤魚)と思われる脂が乗った干物、イカ刺し、茶碗蒸し、納豆、豆腐、サラダ、塩から、蕗の煮物、蒲鉾、梅干しとナスの漬け物とご飯とみそ汁がお盆に乗っています。

24th_june_2008__3ホテルのエレベタ-前の踊り場には、さりげなく綺麗に咲いた花の鉢が置かれて、その回りの空間に色を添えています。

24th_june_2008__4 ホテルのロビ-内には、有名な陶芸家の作品と思われる、非売品の唐津焼の器が陳列棚の中に展示されていました。 皿や茶器などが造られていますが、わびとさびの世界ですから、 豪華絢爛な伊万里焼と異なり、とても落ち着いた色になっています。

24th_june_2008__5 JR唐津駅構内の電光掲示板には、伊万里駅行きの普通列車が9時36分発である事を示しています。

24th_june_2008__6 2008年6月18日に桜島に立ち寄った際に、私が買った紬の半袖を着ていますが、やはり半袖の方が断然涼しいので、これからは国内の夏場の旅には、半袖にする事に決めました。 (てすが、東南アジアでは、蚊によって熱病が伝染するので、暑くても長袖は欠かせません。)

24th_june_2008__7 黄色の派手な車両が入線してきましたが、ワンマン・カ-です。

24th_june_2008__8 車内の写真ですが、料金表や整理券発行機など、バスと同様に、ワンマン・カ-には必要なアイテムです。

24th_june_2008__9 45分程度乗車したら、佐賀県伊万里市の伊万里駅に到着しました。

24th_june_2008__10 今まで乗ってきた車両の全体像ですが、電力を取り入れるパンタグラフが車両の上部には、ありませんので、ワンマンのジィ-ゼル車である事が判ります。 ジィ-ゼルのエンジン音は、全く車内では聞こえませんし、勿論、振動もありませんので、電気で走る電車と同じ感覚になります。

24th_june_2008__11 小さく可愛らしいJRの伊万里駅です。

24th_june_2008__12 17世紀頃に、有田で磁器が造られ始めましたが、それらを伊万里港から、海外に輸出された為に、伊万里の地名が世界的に有名になりました。 今は有田と伊万里のそれぞれの里で、焼き続けられています。又、世界的に陶器の街として有名な伊万里は、カブトガニの繁殖地でもあり、その記念碑が駅前に建てられていました。

24th_june_2008__13 実は、伊万里駅が二つあります。 左右同じデザインの駅舎になっており、左がJRで、右がMR(第三セクタ-の松浦鉄道)で、それぞれが始発駅になっています。 1899年(明治32年)に伊万里鉄道として開通し、唐津と伊万里の間を走るJR筑肥線(ちくひせん)になり、伊万里と佐世保の間と伊万里と有田の間を結ぶ、松浦鉄道になっています。

24th_june_2008__15 松浦鉄道駅のお土産店に、非売品の伊万里焼が数点展示されていましたが、その中の一点がこのコ-ヒ-・カップのセットでした。 柿右衛門様式と呼ばれる、焼き物の上絵の色には、赤、黄、緑、そして青、紫、金などが用いられますが、刺身醤油用の小皿を買った、陶器店のご主人の説明では、赤、青と黄が三原色が、必ず使用されているの事でしたので、 このコ-ヒ-・カップが、典型的な見本でした。

244rh_june_2008_ 伊万里焼の刺身醤油用小皿です。

1_24th_june_2008_  伊万里川に架かる相生橋(あいおいばし)には、立派な大型の壷が飾ってありました。 所謂、柿右衛門様式の絵柄で、伊万里色絵楼閣山水門大壷と命名され、オリジナルを元に、更に大きく制作し、その大きさは、90cmとの事でした。 中国の沈香壷(ちんこうつぼ、来客を迎える前に蓋をとって、香りを部屋に漂わせて、もてなした壷)を手本に、有田で焼き物が始まり、輸出された古伊万里焼(こいまりやき、昔に焼かれた陶磁器と、現代の有田・伊万里焼と区別する為に、古伊万里焼と呼ばれています)は、マイセン(ドイツ、マイセン群)焼きにも多大な影響を与えました。 オランダ人形やオウム像も反対側の欄干に飾ってあった様ですが、急いでいた為に、見過ごしてしまいました。 この相生橋の袂(たもと)から、古伊万里焼が船に乗って輸出され、伊万里津(いまりつ)と呼ばれる港町になりましたが、今は、伊万里津積み出し場跡としてパンフレットに紹介されています。

24th_june_20008_相生橋中央部の欄干にも、図柄が異なる大壷が飾ってありましたが、蝋燭立てで、欧州の煌びやかなロココ様式の建物と、この様な古伊万里焼の燭台が調和した為に、人気があったのでした。

24th_june_2008__16 相生橋から見た、延命橋で、此方の橋の欄干にも、磁器の人形が飾っている様で、この橋を渡ると長生きをするかもと、書かれていますが、どうでしょうか。 私は時間がないので、その橋まで行きませんでしたが。。。

24th_june_2008__17 この相生橋の袂(たもと)に、ビルがあり、その壁面に設置された、からくり時計があります。 船着き場を意味する「津」の字が使われ、伊万里津と言われていました。 有田で焼かれた磁器は、この伊万里津の港町より積み出れた為に、港の名にちなんで伊万里焼(その時代に造られた伊万里焼きは、後になって区別する為に古伊万里と呼ばれる様になりました)と呼ばれ、その船積み港の様子を一時間毎に、再現するそうです。 船積みされた(古)伊万里焼は、長崎の出島に送られて、オランダの東インド会社によって運ばれ、欧州の王侯や貴族の宮殿で装飾品や食器として使用されました。

24th_june_2008__18 駅通り商店街の先ほどの陶器店で、伊万里焼の小皿を買い求めた後に、そこのご主人から、陶器商家資料館の存在を教わり、立ち寄りました。 陶器商人の自宅(一番手前の建物)が寄付され、今は商家の資料館として解放されています。 その隣には、陶器店、「海のシルクロ-ド館」が続いており、女性の陶芸家の作品も展示即売していました。 陶器の出発点が伊万里の為に、「海の」と言葉を付け加えてありました。 

1_24th_june_2008__2 急いでそのお店で、茶碗を3点買い求めました。

2_24th_june_2008_ちょっと変わった絵柄です。

3_24th_june_2008_ シンプルな絵柄もなかなか良いです。

24th_june_2008__19松浦鉄道駅構内に、食堂がありましたので、そこで昼食を摂りました。 久々のワカメそばを啜(すす)りました。

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2008年6月23日 (月)

一人旅 in 九州・唐津 (8) - 2

唐津市内の某飲み屋さん:今晩も一見の客として、少しわくわくしながら、玄関と戸を開きました。 午後7時過ぎで、すでにお客さんが二人おり、会話をしながら飲み交わしていましたので、良い雰囲気のお店と直感しました。 ママさんに芋焼酎「黒霧島」のお湯割りを頼みましたが、すぐにそれと、豆腐と野菜の混ぜ物が付きだしで出ましたが、「何か旨いつまみはある?」と聞きながら、もう一杯焼酎の追加です。 そうしたら、地元の茹でた烏賊を出してくれました。 ショウガと醤油で、とても美味しく戴く事が出来て、唐津に立ち寄って良かった思う瞬間でもありました。 残念ながらその突き出しと烏賊の写真はピンぼけになっていました。

23rd_ju_3 次に頼んだのは、地元の竹の子と鶏の煮物で、歯ごたえが良く味も良く染みて、これも美味しかったです。 ママさんの美貌よりも、盛られた皿の美しさに魅せられてしまいました。 伊万里焼の様な、その絵に釘つげになり、とってもほしくなりました。 明日、伊万里に立ち寄る事を話し、同じ様な皿が見つかるかどうか判らないので、是非譲ってもらえないかと交渉しました。 気の良いママさんは、差し上げますと言ってくれましたが、二皿で1万円でお願いするにしました。 でも、ママさんがなかなか受け取らずにいましたが、やっと受け取ってくれ、無理難題を言い出した私も、ほっとしました。 その経緯の一部始終見聞きしていた、先ほどのお客さん達が、私に声をかけてきました。 「どちらから来ましたの?」と聞きましたので、そこの玄関からと答えましたので、軽い笑いが出ました。 それで、その場も盛り上がり、千葉県からの一人旅と付け加えますと、ようこそ唐津までと、歓迎の意を現してくれました。 魚も美味しいし人情も厚い唐津をこよなく愛しているとお二人さんが、異口同音に言われ、郷土愛が持てる良い街の一つが唐津なのだと思いながら、年齢をお聞きすると、お二人とも、何と、後期高齢者(75歳以上)との事でした。 60歳後半の男性の様で、しかも相当元気に飲んでいました。 その後に、お二人さんの一人が、彼の彼女をお店に呼び足して、このお店で合流しました。 彼女がいるから若さを維持しているのかは、聞きそびれましたが。

23rd_ju_2 南蛮漬けを頼みましたが、少しピンぼけです。 後でこの伊万里焼と思われる二皿を洗って、包装紙に包んでくれました。 

23rd_july_2008_ 更に鶏の唐揚げも戴き、やっとお腹が落ち着きました。 満腹と言う意味でなく、腹8部位でした。

23rd_jully_2008_ カラオケバ-の紹介をこのお店のママさんに頼んだら、後から入ってきた他のお客さんに店番を頼んで、親切にもスナックまで案内してくれて、ママさん同士で、千葉県の人だから、宜しく頼みますよと、一言付け加えてくれたのでした。 これで、まずぼられる事は、ないですので、安心して、飲んでカラオケが出来ます。 スナックの店内を見回すと、先ほどの後期高齢者のお客さん二人と彼女も、カウンタ-に座っており、会釈をしあいました。 芋焼酎のお湯割りを飲みながら、お通し(キュウリの漬け物、からし明太子、梅干し、甘納豆)を戴きながら、数曲唄い、その彼女とも雑談をする機会がありました。 身の上話の暗い話でしたので、ここでは割愛します。 支払いをしたら、テ-プに唄を録音したからと、そのテ-プをママさんから貰い、もうそろそろホテルに戻ろうとしていたら、先ほどの飲み屋さんのママが立ち寄り、入れ替わりになりました。 唐津の皆さんから、とても楽しい時間を戴き有り難う御座いました。

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一人旅 in 九州・唐津 (8)

23rd_june_2008_ ヨ-グルト、納豆、豆腐、蓮の油炒め、ヒジキの煮物、イモサラダ、キュウリの漬け物、梅干し、ウィンナ-・ソ-セジ、鯖の焼き物、みそ汁とご飯で盛り沢山の朝食になりました。 本日は、熊本から唐津まで移動しますので、しっかり朝食を戴きました。  今回の一人旅に唐津を加えたのは、唐津焼きの焼き物を観る事と、玄界灘で捕れた魚を食べて、唐津城の拝観でした。 田舎暮らしの本(http://tkj.jp/mag/mag_002.html)という雑誌の1999年2月号に、陶芸家の中里隆さん(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8C%E9%9A%86)の陶芸の世界と彼の田舎暮らしが紹介されていました。 陶芸家として名声が高く、料理の腕もプロ並みで、唐津市内の漁場に玄界灘で捕れた魚を買い付けて、食している様子が細かく書かれていた事が、私にはとても興味が湧きました。  それから足かけ10年目に、唐津への旅が実現しました。 

路面電車:2008年6月19日に、鹿児島から熊本へ移動し、熊本駅に到着した時には、雨でしたので、宿泊先のホテルまで、タクシ-に乗りました。 帽子を被り制服姿のタクシ-の運転手さんは、雨の中、トランクから、私の荷物を親切にも取り出してくれました。 私は、傘とデイバックとショルダ-バックを待っておりましたから、とっても助かりました。 23rd_june_2008__2 でも、今朝は晴れましたので、最寄りの路面電車駅まで、荷物を持って移動して、車内に乗り込みました。 大人150円の料金で、便利な乗り物ですから、是非今後も利用しながら残していってほしい交通機関ですね。 

23rd_june_2008__3 他の系列から来た、熊本駅行きの路面電車で、街とうまく解け合い良い被写体になります。  

23rd_june_2008__4 路面電車を降りると、JR熊本駅です。

 

23rd_june_2008__5 熊本駅から鳥栖(とす)駅まで、鹿児島本線の各駅電車を利用しましたが、車窓が相当長いワンマン電車で、車両もまだ新しく、JR九州が、観光に強い力を注いでいる事をうかがい知る事が出来ます。

 

23rd_june_2008__6 少し早いですが、駅構内の立ち喰いそばに、ゴボウ天ぷらを載せて戴きました。 かまぼこと鶏肉のそぼろの様な肉が入っていましたが、鰹だしのさっぱりとした汁で美味しかったです。

 

1_23rd_june_2008_ 鳥栖駅で、長崎本線に乗り換えです。 やはりワンマンカ-ですが、新しい車両を導入しています。

 

23rd_june_2008__8 車内の席は、板張りで、なかなか洒落ています。 途中で乗る人の為に、バスの様に整理券を発行する機械がドア-の側に取り付けられ、円形に取り付けられた釣り革が下がっていました。 

23rd_june_2008__9 そして、佐賀駅に到着しました。 佐賀には、恵比寿様の数が日本一との事で、その記念として当駅の構内に記念碑が作られていました。 その碑には、「旅立ち恵比寿  人にはそれぞれ旅立ちがあります 進学、就職、結婚・・・ このえびす様は、それぞれの旅を応援しておられます 今日の旅もご安全に」と書かれていました。 どうも有り難うと呟きながら、シャッタ-を押しました。 

23rd_june_2008__10 佐賀駅から、唐津線に乗り換えて、唐津駅に行く列車です。 この様な古い車両もなかなか味があるので、安全面で問題なければ、残していってほしい物ですね。 車両の年数が古いほど、希少価値は高まり、生きた鉄道の歴史になる訳ですからね。

 

23rd_june_2008__11 車内の椅子に腰掛けて車窓の景色を眺めていたら、ガラス窓にカミキリムシと思われる昆虫が張り付きました。 すごい力と吸盤力があるからだと思うのですが、電車が走行しているにも関わらずに、ガラスにへばり付いているんですね。 

2_23rd_june_2008_ その後に、ゆっくりと移動した時に、昆虫の側面を観察しましたら、カミキリムシと確認出来ましたがその後に、とうとう私の視界から消えてしまいました。

 

23rd_june_2008__12 「おうち」と駅構内の案内板に駅名が書かれいるのが、目に留まりました。 ユニ-クな駅名と思いましたが、漢字では、読めませんでした。 此方の駅名を漢字で書くと、相知とありました。

 

23rd_june_2008__13 唐津駅に到着し、駅前にあるのが、今日の宿泊先のホテルで、名前の通りにホテルの玄関はシティホテルの様相をしています。 荷物を預かって貰い、すぐに街の散策です。

 

23rd_june_2008__14 唐(現在の中国)へ渡る港として、栄えた唐津市の市役所前に、鳥居がありました。 

1_23rd_june_2008__2 少し歩くと、唐津神社があり、参拝客の車が駐車してありました。

 

23rd_june_2008__15 鳥居を抜けると、左手に、両手とを清めて、口をすすぐ、手水舎(てみずや)があります。 

23rd_june_2008__16 開運招福と家内安全と書かれた大きなお麩だがあり、荘厳な本殿です。

23rd_june_2008__17その後に、舞鶴公園内にある、唐津城(別名、舞鶴城)の天守閣に登りました。 左側に小さく、本丸の一部が写っています。 天守閣にはジオラマの唐津、武具、古絵図、唐津焼などが展示され、観覧料は大人一人400円で、強風でしたが、展望台から光景も素 晴らしかったです。 エレベタ-も設置され、一回100円で、帰りに試乗しましたが、階段の上り下りが不自由な方には、とても良いサ-ビスです。 

23rd_june_2008__18 舞鶴公園案内図で、これで全体の位置が、よく判ります。

 

23rd_june_2008__19 若いカップルの二組が、すれ違いをしている、散策の道である、階段を登って、天守閣に行きます。 唐津城四百年と書かれた登り旗が、はためいていました。 

23rd_june_2008_ 途中まで登ると、下段広場が現れ、大きな藤の棚がありました。 天然記念物紫フジとして紹介され、4月下旬から5月上旬にかけて花が咲き、開花した藤棚と天守閣を写した写真がパンフレツトに使用されていました。 5万以上の花数で、樹齢100年以上と言われていますので、花の盛りには素晴らしい紫の花が満ちあふれている事でしょう。

 

23rd_june_2008__2 風格のある「一の門」です。 

23rd_june_2008__3 本丸の上段広場には、天守閣への入り口があり、ここから入って、天守閣の内部を観覧します。

 

23d_june_2008_此方の上段広場で生活してるネコ達で、可愛いですね。

 

Wind_surfining_23rd_june_2008_ 天守閣の展望台から、松浦川でウインド・サ-フィンを楽しんでいる若者が楽しそうに滑走しています。 

23rd_june_2008__4 天守閣の展望台から観ました。

約100万本の黒松の群生は、潮風を防ぐ防風林ですが、名勝の為に、「虹の松原」と呼ばれています。

 

23rd_june_2008__5 沖合3kmほどにある、「高島」は人口400人程度の離島で、宝くじが良く当たると評判の神社、宝当神社と小中学校があるそうです。 広大な唐津湾は、その高島を取り込み、その先の沖には、広大な玄界灘が広がっています。

 

23rd_june_2008__6 松浦川に架かっている、松浦橋が写真の後方に写っています。 

23rd_june_2008__9 右側が大島で、左側が九州電力が経営している火力唐津発電所で、2号機と3号機の二基で最大出力は、87.5万Kwとの事です。 又、九州電力(http://www.kyuden.co.jp/nuclear_index.html)は、玄海原子力発電所(3号機は定期点検を終了し調整運転に入った様です。)と川内原子力発電所も所有し、発電し続けています。

23rd_june_2008__7 普通のエレベタ-も設置されていますので、帰りは此に乗って城から降りました。

1_23rd_june_2008_エレベタ-降り口付近にいたネコ達です。

 

2_23rd_june_2008_ 黒猫もいました。

 

3_23rd_june_2008_ この二匹は、天守閣の上段広場で見かけたネコ達の子供だそうで、そんな説明を妙齢なエレベタ-の切符切りおばさんがしてくれました。 

23rd_june_2008__8 旧唐津銀行の建物は、1912年(明治45年)に煉瓦を使用した洋風建築として、建てられたそうで、その際に明治の建築家、辰野金吾が監修した言われ、郷土建築家、辰野金吾、曽根達蔵と村野藤吾達の資料を展示する資料館として、現在は使用されているとの事です。 

そして、その足でホテルに戻りました。

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2008年6月22日 (日)

一人旅 in 九州・熊本 (7)

22nd_june_2008_ 熊本市ホテルの朝食:今朝もバイキングで、和食系にしましたが、油分が少し多かったですね。

 

22nd_june_2008__2 キリスト教教会:多くの信者さん達の寄付や、同教会が経営する学院、「聖マリア学院」の利益の一部で、修理されている様で、信仰心のある人々の多くは、神を信じ平和に清楚に暮らしている事が心に伝わってきました。

22nd_june_2008__3 複合ビル:フ-ド・コ-ト、ブティック、本屋や映画館などが集まり、若者達が一カ所で遊べる施設としての複合ビルが、全国的に作られています。 今日は日曜日(2008年6月22日)のなで、子供連れの家族や若者達で、賑わっています。    昨日より全国で封切りになった、インディ-・ジョン-ズの最新作、クリスタル・スカルの王国を観ました。(http://www.indianajones.jp/top.html)    この種の冒険活劇としての娯楽映画の批評は、いろいろと別れると思いますが、それなりに私は楽しめました。 インディの父(ショ-ン・コネリ-は遺影で参加)が亡くなり、インディ(ハリソン・フォ-ド)の息子のマットが登場しましたので、多分、今回が彼の最終作品と思われます。 もし、続編が作られるとすれば、多分、青年マット(シャイア・ラブーフ)が引く注ぐ様な予感を与える様な、そしてハピ-エンドのラスト・シ-ンでした。

22nd_june_2008__4 昼食:かやくご飯付き、日本そばを頼みましたが、少しカロリ-調整が出来ました。 

一度ホテルに戻り、夕食の為に、外出して、街を散策しました。 いろいろ歩き回り、お店の名前から、一軒を選びました。

22nd_june_2008__5 芋焼酎のお湯割りと突き出しです。

2_22nd_june_2008_ 梅肉とハモの組み合わせは有名ですが、タコ刺しを梅肉で戴くのも良いですね。

 

3_22nd_june_2008_ 「人文字ぐるぐる」です。 此方の郷土料理で、人文字ネギと呼ばれる、小ネギを茹でた後に、青い葉の部分で、白い部分をぐるぐる巻きして、酢みそで戴きます。

4_22nd_june_2008_ 左側が、馬のモツ煮込みで、右側がゴ-ヤ・チャンプルです。 此方では、馬がよく食べられている様で、冷凍でなく、生の馬刺しやモツ煮も、度々いろいろなお店で戴く事が出来ます。 苦瓜は、沖縄では、ゴ-ヤと言い、チャンプルは、混ぜると言う意味ですが、此方でも苦瓜の生産も盛んです。

5_22nd_june_2008_ 最後に、ハモの塩焼きを頼みました。 わさびが添えてありましたが、酒飲みに合う塩加減でしたので、最初はそのまま戴き、次にわさびを付けて戴きましたが、冷凍ものでしたから、まぁまぁの味でしたが、それ以外の料理はとても美味しかったです。 今晩も、ご馳走様でした。

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2008年6月21日 (土)

一人旅 in 九州・熊本 (6)

21st_june_2008_ 熊本市市内ホテル朝食:2日目の朝食です。 コロッケ、蓮、里芋、小アジフライ、キャベツの千切り、小梅干し、キュウリの漬け物、豆腐、納豆、みそ汁にご飯と、栄養バランスも良いと思います。

 

21st_june_2008__2 雨が止みませんので、近くの繁華街に出かけて、電化製品の量販店に立ち寄り、時間つぶしをした後に、お昼を食べる為に、中華飯店に入りました。 ひじきの煮物と焼酎の水割りを頼みました。 店内には、土曜日の昼時なので、土曜日も働くお客さん達が、昼休みの為に、食事をしています。 入れ替わりにお客さんが来ますので、やっぱり安くて旨い店の様です。 

21st_june_2008__3 そばを揚げてバリバリになった麺に、あんかけをかけた皿うどんと、馬のモツ煮を注文しました。 皿うどんは、長崎の郷土料理で、来週には長崎に移動しますが、皿うどんを食べる機会を逃すかもしれないので、美味しい料理を出すお店で、まず食べておく事にしました。 味をより一層深める牡蠣も小さく刻んで入っていましたので、とっても旨かったです。

21st_june_2008__4 馬のホルモン煮で、初めて戴きましたが、豚のモツ煮と、少し食感で違いますが、味付けも上手で、これも大変美味しかったです。    それからホテルに帰ると、部屋の掃除は終わっていましたので、一休みです。

楽しみな夕食の時間がやってきましたので、ホテルの側にある、小料理屋さんに立ち寄りました。 店長さんの息子さんが、卒業した高校の先生方の結婚式の二次会に、このお店が利用されて、その盛り上がっている時に、お店の引き戸を偶然にも私が開けました。 瞬時に良いお店に違いないと直感しましたが、此方は、一見の客ですから、お店の方とお客さん達が、受け入れるかどうかが、雰囲気で伝わって来ます。 幸いにも受け入れられた様で、女将さんが、カウンタ-の上席に案内してくれました。(上席しか空いてなかったので、そちらに案内してくれました。) 

1_21st_june_2008_ 芋焼酎の「島美人」のお湯割りを頼みましたが、突き出しにタコのぶつ切りが出てきました。 関東では、刺身を戴く場合に、大抵、醤油にわさびかショウガを入れますが、此方では、甘口醤油か、酢味噌和えで戴きます。 此方のお店の酢みそ和えは、店長さんの手作りで、二次会の先生が、ひどく気に入っている為に、今晩も、少しお持ち帰りをしていました。 天草の地ダコとの事で、身が柔らかく美味しかったですが、私は、醤油がほしかったです。   写真では、判りにくいのですが、タコの下に、茹でたネギが隠れています。 後で女将さんから聞いた事なんですが、地元で採れる、人文字(ひともじ)ネギと言う小ネギを、茹でた後に切らないで、そのまま、小さく折った後に、残りの緑色の葉の部分で、ぐるぐる巻きにします。 それが料理になると、「人文字ぐるぐる」として、メニュ-に書かれる訳です。 

2_21st_june_2008_ 次に頼んだのが、薩摩(鹿児島)揚げを熊本で戴く事にしました。 すり身を海苔に巻き、油で揚げます。 油で揚げた店長さんは、先生方と世間話をしていましたので、女将さんと薩摩揚げの料理の事で、話が始まりました。 揚げたての薩摩揚げも大変美味しく、これからも郷土料理として今後も引き継がれていくと思います。

 

3_21st_june_2008__2 熊本の郷土料理である、からしレンコンを頼みました。 昔食中毒があった事も知っていた女将さんは、その原因は、からしレンコンを冷まさずに、袋詰めにした為に、菌が繁殖したとの説明でした。   造血に優れ、食欲を増進するレンコンの穴に、手作りのからし味噌を入れて、油で揚げてくれました。お皿には季節感のある、紫陽花(あじさい)が飾ってあり、店長さん宅で、咲いた紫陽花との事で、ピンクのお皿と調和して、センスのある盛りつけでしたので、その事を店長さんに述べたりしましたので、私も、お話の仲間に加えてくれました。 

4_21st_june_2008_ 馬刺しの登場です。鯖刺しを頼みましたが、先生方の注文で売り切れとなり、馬刺しにしたんですが、ほどよく油が乗って、絶品でした。 

5_21st_june_2008_ 本日のお勧めメニュ-です。

 

6_21st_june_2008_ 塩トマトも頼みました。 干拓地域などの塩分濃度が高い地域で、栽培れていますので、その名前が付いていますが、果肉が引き締まり、糖度も高く、それは果実の様でした。

 

7_21st_june_2008_最後に、あの美味しい地ダコをもう一度頼みました。 盛りつけも素晴らしいですし、天草の地ダコの味も最高でした。 

8_21st_june_2008_そしたら、女将さんが、みそ汁を作ってくれ、店長さんから名刺を頂いてホテルに帰りました。その名刺には、味処、「○○路」と書かれていました。 店長さん、女将さん、ご馳走様でした。

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2008年6月20日 (金)

一人旅 in 九州・熊本 (5)

20th_june_2008_ ホテルの朝食:和洋のバイキング・スタイルで、バランス良く食べられる様に、お皿に盛りました。 山口県出身の私の家内は、若い頃に納豆は、食卓に出してもあまり食べませんでした。 ちょっと変わった食べ方ですが、今は、ご飯にかけずに、かき混ぜた後に辛子と醤油で、そのまま戴きます。 昔の日本国内では、人の往来が多くなかったので、関西以南の人達には、あまり納豆になじみがありませんでしたが、健康食品としての納豆か゛有名になった事もあると思いますが、多くのビジネスホテルで、朝食に納豆を出す場合が増えてきました。 心臓の弁膜に支障が生じるので、人工弁や手術をした以外の方々は、ネバネバの納豆はとても健康に良いと言われています。 嬉しい事に、此方のホテルでも、納豆が置いてありました。 美味しく完食でした。 

1_20th_june_2008_ 熊本城稲荷神社:熊本城に隣接する、稲荷神社で、商売繁盛、合格祈願、良縁祈願、家内安全などを祈願する神社で、熊手やお守りもある様です。

2_20th_june_20008_ 神社の本殿と鳥居で、朱色が艶やかです。

20th_june_2008__2 熊本大神宮:熊本城の石垣の下にあり、参拝した方の車と思われますが駐車していました。

20th_june_2008__3 熊本城不開門(あかずのもん):案内板に沿って歩きました。 最近は、観光に力を入れている為でしょうが、この様に、彼方此方に看板が立てられていますので、道に迷う事も少なく、とっても助かります。

20th_june_2008__4 熊本城不開門(あかずのもん):県立美術館別館の近くにあります。 拝観料を今日もここで支払いました。

20th_june_2008__5 階段を上がり続けると不開門が目に入ってきました。

20th_june_2008__6 不開門の正面をとりました。 勿論、観光客の為に、今日も開いています。 築城に当たって、やはり方位は大事な要素で、北東方向は鬼門とされていますので、当時は、門を造っても、普段は閉鎖されていましたが、死人や不浄物の搬出の際にのみ開門していたそうで、重要文化財に指定されています。

20th_june_2008__7 熊本城本丸御殿地下入り口は、闇がり通路(くらがりつうろ)に通じています。

20th_june_2008__8 熊本城本丸御殿闇がり通路と呼ばれていますが、本丸御殿の地下で、石垣に乗せられた梁、ケヤキの太い柱が見えます。

20th_june_2008__9 熊本城本丸御殿の銀杏の巨木は、籠城(ろうじょう、戦いの際に城に立てこもる事。)の際に、銀杏も食料になるからと植樹されたと言う言い伝えも、あるそうですが、この木は雄の木の為に、実はならないそうで、後世の人が、尾ひれをつけた作り話と言われています。

20th_june_2008__10 熊本城本丸御殿の全景の一部ですが、雨の為に、足場が悪く、テントの近くで、靴を脱いで昨日、拝観をしました。

20th_june_2008__11 熊本城天守閣:雨がふっていますので、観光客も、本日は、少なめでした。

20th_june_2008__12 お昼は、鮭豚定食で、「Y○○家」さんの私の定番のメニュ-です。 

夕食の為に、地元のス-パ-で、トマトと握り寿司を買って帰り、ホテルで食べました。 トマトは塩トマトと呼ばれ、果肉が少し堅く、糖度も少し高いので、果物の様な感じで、トマトの香りはとっても少ないので、トマト嫌いな人にも美味しく戴けると思いました。

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2008年6月19日 (木)

一人旅 in 九州・熊本 (4) - 3

1_19th_june_2008_ 熊本城宇土櫓(くまもとじょう うとやぐら):パンフレットでも、この角度から撮られた写真が使用さている様に、宇土櫓が荘厳な石垣に建てられている光景は、流石に見事です。 西南戦争後にも、焼失を免れた櫓で、3層5階で主に松が使用れていますが、栗や栂や楠の木も櫓の内部に使用され、屋根瓦は、4万6千枚も使用され、加藤家の紋章(桔梗、ききょう)も描かれた瓦も残っており、まるで天守閣の様な風貌で、重要文化財になっています。 宇土櫓の後ろに、とても小さくですが、天守閣が見えます。 

2_19th_june_2008_ 城内から観た、宇土櫓で、此方が入り口になります。 

19th_june_2008_ 城内から観た、南大手櫓門で、2002年(平成14年)に復元された櫓門で、城内では最大の大きさです。

 

19th_june_2008__2 熊本城内本丸御殿:銀杏(ぎんなん)の大木(写真の右側)が植えてある為に、熊本城は、別名、銀杏城とも呼ばれています。当主の加藤清正の命によって、建てられた本丸御殿は、西南戦争で消失しましたので、1999年より発掘調査が始まり、2003年(平成15年)から本丸御殿の完全復元を目指して建てられ、今年に完成しました。 ですから、畳も柱も全て新品で、檜の香りと、い草の香りが、大広間全体に香りの良い香水のごとく漂っていました。 勿論、柱などに指や手で触れるのは禁止で、撮影も部分的に禁止なっており、各廊下の真ん中を靴を脱いでの拝観でした。 

大広間の天井の絵画や壁画や襖の絵も、金色を背景に使っていますので、黄金の間の様ですが、撮影禁止の間でした。 

19th_june_2008__3 ケヤキの巨木がカットされて造られた大柱や檜が太い柱として、ふんだんに惜しげもなく使用されており、梁(はり)には、皮のみを剥いだ巨木の赤松が利用されていました。     すばらしい建築の美の空間に、たたずみながら、総建築費はどの位掛かったのかと一瞬、頭を横切りました。 芸術家は美の追究をし、妥協をしないものですから、建築費は相当にふくれたかもしれませんね。 檜の太い柱が、まっさらで、檜風呂の様に、良い香りが漂っています。 

19th_june_2008__4 復元行程図が貼ってあり、発掘された瓦の一部と復元された瓦が展示されていました。

19th_june_2008__5 配膳の間で配膳と囲炉裏で煮炊きした様です。

19th_june_2008__6  ホテルに帰り、シャワ-を浴びて一休みしてから、近くの飲み処で、冷や奴、サラダ、ニガウリ煮、目刺し、辛子明太子、イサキの塩焼きなどを芋焼酎、「さつま島美人」のお湯割りと共に戴きました。 料理の写真は、残念ながら、全部ピンぼけでしたので割愛しました。 いろいろと料理を戴きながら、お店で勧められたのが「農家の嫁」でした。勿論、芋焼酎です。 麦焼酎から、芋焼酎へと代わり、今は、軽い感じの芋焼酎では、物足りないので、「さつま島美人」の愛飲者の私ですが、「農家の嫁」は、かなり重い感じでしたが、飲み続けると、きっと病み付きになりますね。 

2_19th_june_2008__2サツマイモと思いますが、赤芋を利用した、「明るい農村」と言う芋焼酎もあり、ネ-イミングがなかなかユニ-クです。 お店の方がわざわざ試飲を勧めてくれましたので、少し戴きましたが、未熟者の私は、まだ修行が足らない事を実感した味でした。 これも飲み続けると、他の芋焼酎が物足りなくなるかもしれませんね。 もう一回、素面の時に、試飲しコメントを出したいです。

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一人旅 in 九州・熊本 (4) - 2

19th_june_2008_ 熊本市の加藤清正(かとうきよまさ)像:生憎小降りの雨ですが、傘を差しながらの散策です。 熊本城を目指して、歩くと、坪井川に行幸橋(みゆきばし)が架かっている光景が目に入ってきます。 その橋の手前に、銅像が建てられていましたが、1562年7月25日に、尾張の国(おわりのくに、現在の名古屋)に生を受け、豊臣秀吉の親戚と言われていますが、実は、秀吉と同じ尾張国、中村の農民の息子で、後に、藤原北家の系図を作り上げたとも言われています。 いずれにしても、幼少の頃から、秀吉に仕えて、その武勇伝が語り伝えられています。そして秀吉の死後に、徳川家の家臣になり、1600年10月21日(慶長5年9月15日)の関ヶ原の合戦の働きによって、肥後の国(ひごのくに、その前は火の国で、現在の熊本)の領主に1600年に任命され、ひどく貧しかった肥後に、治山や治水工事に伴い、新田の開発に努めたり、南蛮貿易も発展をさせ、肥後の国を豊かにしました。 その為に、肥後の国の初代藩主の清正は、地元では、英雄なのです。 しかし、朝鮮半島と中国(当時は明国)も併合を夢見た、秀吉の命を受けて、先ず朝鮮半島の釜山に日本水軍を進めて、朝鮮半島の侵略を遂行しました。その為に、韓国では、無慈悲で、凶暴な侵略者だった為に、民衆から「犬、鬼(幽霊)上官」と恐れられた、日本の悪名高い武将として知られていますが、実は、どちらも加藤清正が併せ持った、明と暗なのです。1601年に清正が築城に着手し、敵に攻められても、城内にたどり着くには、ジグザグに道路を造ったり、階段の高さを変えて、登りにくくしたりと、難攻不落の城作りの才能もあった訳ですが、優秀な石工職人や大工達らによって1607年に落成し、それを祝い、城名も現在の熊本城に改称しましが、1611年、50歳で熊本城内で、病気の為に、息を引き取ったそうです。 銅像を見上げると判りますが、体格も良い大男として伝わっていますが、コックさんが長い帽子を被るのと同じように、体を大きく見せる為に、長いかぶとを被ったとも伝わっています。

19th_jue_2008_ 坪井川に架かる、行幸橋が見えます。 

19th_june_2008__2 行幸橋を渡って、右手に進んで歩きますと、お城の城壁が見えてきました。はぜ方門です。 突き当たりになっていまから右手に行く事になります。

19th_june_2008__3入園料金の看板:大人一人500円でした。

19th_june_2008__4 用意周到な清正は、120以上の井戸を掘らせたと言われ、この竹の丸の井戸の深さは7mほどあり、井戸の覆屋(おおや)は、明治時代の古い写真を元に復元したそうで、その看板です。 

19th_june_2008__5 復元された井戸です。 兵糧責めになった時に、これら多くの井戸が命の水になる訳で、今の現代社会でも、地震に備えて、一週間程度の非常食と飲料水の備蓄を各家庭で必要ですね。人の為でなく、自分の為と家族の為に備えをしなくては。。。 大地震は必ず襲ってくるのですからと思いながら、観察しました。 

19th_june_2008__6 竹の丸の広場から、天守閣を撮りましたが、石垣との間に小さく本丸が、真ん中に見えますが、一瞬どうやって本丸まで行くのかと思う様な造りがなされています。

19th_june_2008__7 まっすぐには、進めずに、右に折れて進む、ジグザグに道が作ってあり、それに沿って登って行きます。 

19th_june_2008__9  今度は、石段になっています。 

19th_june_2007_ 城壁の一部がやっと視界に大きく入りました。 

19th_june_2008__10 その横に、質部屋跡の杭がありました。 同盟や誓約の証として、妻子達を人質と差し出させて、ここの部屋に住まわせていたと言われています。 

19th_june_2008__8そこを通り過ぎて、更なる階段を登ります。 当然昔の階段は、上がりにくくなっていますので、旧石段の間に石を置いて、段数は多くなりますが、上がりやすくなっています。ここまで来ると、かなり息切れしますので、確かに敵の兵士に疲れを与える様に造られていますね。

熊本城は、別名、銀杏城(ぎんなんじょう)とも言われ、大阪城と名古屋城と熊本城は、お城としての機能とその美から、日本三名城と呼ばれています。(名古屋城、姫路城、熊本城、又、一説には松本城、姫路城、熊本城と、三名城には、諸説があるそうですが、いずれの場合も熊本城が入っています。) 加藤清正の幾多の戦いの経験から、120ヶ所以上の井戸を掘り、難攻不落な城作りなっており、石垣の上段では、反り(そり)がつけられ、「武者返し」と呼ばれています。しかしながら、1877年の西南戦争の3日前に、原因不明の出火で、天守閣など多くの建物が焼失した為に、現在の天守閣は、1960年(昭和35年)に、鉄筋コンク-リト造りにして、外観が復元されました。 

19th_june_2008__11 熊本城には天守閣が二つあり、左が大天守閣で、右が小天守閣です。 拝観する入り口が小天守閣に造られ、出口は大天守閣に造られています。

 

19th_june_2008__12 右側の小天守閣から入り、鎧を身にまとい、槍を持った、番兵2人(バイトの若者と思います。)に迎えられて、天守閣に入り、出口は、大天守閣にありました。 後ろには、熊本城の再建に寄付をされた方々のお名前が書かれた札が沢山架かっています。 又、谷村計介の銅像も中央に建っていましたが、西郷隆盛の率いる薩摩軍と戦った、西南戦争の際に、熊本城を抜け出し、官軍の本隊に、籠城軍の窮状を伝えた宮崎県出身の陸軍伍長で、田原坂の戦いで戦死し、戦前に修身の教科書の題材に取り上げられたそうです。 しかしながら、戦争中に、金属供出の為に、武器に変わってしまい、その為に、新たにライオンズクラブから10年ほど前に寄贈された銅像との事です。 

19th_june_2008__13 すぐ右手には、金属で作られた球状をした燈籠がつる下がっています。 大きな蝋燭を使用して暗い通路を照らしたと言われています。 看板のには、熊本博物館と書かれ、熊本城の天守閣も博物館の分館になっている事が判ります。 

19th_june_2008__14 天守閣が復元された1960年に制作された、鯱(しゃちほこ)が、落雷や台風による破損や亀裂の為に、2008年2月に新たに作られた鯱に取り替え、外観の保存状態が良い、古い鯱が展示されていました。

 

19th_june_2208_ 細川家の参勤交代用の御座船であった波奈之丸(なみなしまる)の絵図です。 

19th_june_2008__15 加藤清正の自画像の写しです。 

肥後藩主達の武具(鉄砲、槍な鎧など)や調度品や熊本城の歴史の展示があり、そして日本の北から南までのお城の写真が展示されていました。 

19th_june_2008__16 天守閣の最上階の西側からは、手前の右手には、宇土櫓があり、緑の芝生が敷き詰められた二の丸広場が見え、その左手に二の丸駐車場があります。 そして全体を取り巻いているのが熊本市の街です。 

19th_june_2008__17 反対側の天守閣の写真です。

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一人旅 in 九州・熊本 (4) - 1

1_196h_june_2008_ JR九州新幹線:外観もスマ-トな流線型で、JR九州新幹線の「つばめ4号」が、始発駅である、JR鹿児島中央駅を午前9時52分の定時発車で、終着駅のJR新八代駅に午前10時31分に到着します。 車両の最後部です。

2_19th_june_2008_ 初めて乗るJR九州新幹線の自由席は、木製の板など使って、雰囲気を柔らかくした演出によって出来た空間と、通路を挟んで2席と2席に4席を設けてあり、まるでグリ-ン車の様にゴ-ジャスでした。

3_19th_june_2008_ 席のもたれの後ろは、木製の板で化粧してあり、床もタイル模様になっています。

1_19th_june_2008_ JR特急電車:JR新八代駅で、「つばめ4号」に接続する、「リレ-つばめ4号」は、欧州でよく見かける、角張ったデザインの「顔」を持ったJRの特急電車で、それに乗り換え、午前10時34分の定刻発車で、JR熊本駅に到着したのが、午前10時54分でした。

2_19th_june_2008__2 車体の側面のデザインで、日本語はありません。

3_19th_june_2008__2 車内の空間もすごくおしゃれに作られています。 車内の真ん中に、荷物置き場が設けられ、どちらからの入り口から入っても、車内の半分を荷物を持って歩くだけですので、便利ですし、盗難防止にも役立つ優れたデザインになっている車両なんです。

4_19th_june_2008_ 次に見つけたのが、食事のメニュ-があり、日本文化の良いサ-ビスを残して貰い結構な事です。

219th_june_2008_ 途中で、車窓から、JR九州新幹線の延長工事が継続しているのを観る事が出来ましたが、ブロックとブロックを乗せている、支柱は太く作られています。

3_19th_june_0028_ 2004年10月23日に起きた、新潟県中越地震で、北越新幹線の8両が、脱線しただけで済んだ事故を忘れる事が出来ませんので、ブロックを支えている支柱は、なんとも頼りない細いので、不安がぬぐい切れません。

1_19th_june_2008__2 JR熊本駅:「リレ-つばめ4号」は、JR熊本駅に到着しました。

 

4_19th_june_ あちらこちらで、JR九州新幹線の延長工事が継続されていていますが、JR熊本駅付近の支柱大きさは、強度があって安心感がある様に見えます。 これはきっと、始発時や到着時に、車両のGがかかる為なのかもしれません。 

19th_june_2208_ 朝食を抜きましたので、ブランチとして、Y○○家のお店に立ち寄り、何時もの様に、赤いガリを多めにのせて、牛丼を美味しく戴く事が出来ました。 ご馳走様でした。

19th_june_初めて本日から宿泊するホテルの位置の不安と小雨の為に、熊本駅よりタクシ-を使いました。 「熊本ハイパ-ホテル」に到着し、荷物を預かって貰い、外出しました。 ホテルロビ-には、無料コ-ヒ-もサ-ビスしているホテルで、評判が良い様です。

19th_june_2008_ ホテルから、表通りに出ると、路面電電車が走っています。 トラックや自家用車には、きっと、路面電車がおじゃまでしょうが、だからこそ気を入れて走行している為に、事故率が少ない様に思いますし、路面電車は、環境に優しいし、ゆっくりと走っていますので、車窓からの眺めも楽しめますし、どこまで乗っても大人150円,小人80円と懐にも優しいのです。

19th_june_2008__2 熊本城の本丸御殿の完成を告げる大きな垂れ幕がビルに垂れ下がっていましたので、是非とも拝観に出かけたいと思います。

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2008年6月18日 (水)

一人旅 in 九州・鹿児島 (3) - 2

18th_june_2008__2 かごしま水族館:鹿児島の桜島フェリ-乗り場と繋がっている、「かごしま水族館に」立ち寄りました。

此方でも、大型のジンベイサメ、エイ、鮫が悠々と泳いでいましたが、フラッシュの禁止(マグロが驚き、物にぶつかりして、怪我をするそうです。)の為に、うまく写真をとる事が出来ませんでした。 

18th_june_2008__3 小波河豚(さざなみふぐ):腹の部分が波の様に見え、背中には泡の様な模様です。

18th_june_2008__4 甲烏賊(こういか):背中に甲が入っているので、そう呼ばれていますが、生の烏賊はの刺身は絶品ですね。

18th_june_2008__5 面白い顔:魚の種類は、判りかねますが、面白い顔が撮れました。 

18th_june_2008__6 エラブウミヘビ:陸のコブラより、強い毒があるようですが、性質はおとなしいと説明されていますが、海で出っくわしたら、噛まれる前に、心臓麻痺になりそうです。 平らな尾っぽをふって、泳ぎやすくなったそうです。

 

18th_june_2008__7 眠り鱶(ねむりふか):鱶の肉は、傷みが遅いので、昔は、日本の山間部で食べられましたが、アンモニア臭いとも言われています。 この鱶が食用かどうかは判りません。 動かないので、寝ているかもしれませんし、寝ている様に見えるから、つけられた名前かもしれませんが、目は光っています。 

18th_june_2008__8 南箱河豚(みなみはこふぐ):魚の骨格も箱の様になっているのかは判りません。

1_18th_june_2008_ヤマトメリベ:ウミウシの仲間で、自由自在に形を変えて、ゆっくりと泳ぎ回っています。つかみ所がない人の様です。

 

18th_june_2008__9 高足蟹(たかあしかに):蟹ならなんでも好きな方もおられますが、私は、やっぱりタラバカニが一番と思います。

 

18th_june_2008__10 九絵(くえ):九州では、アラとも呼ばれる、高級魚で、和歌山県では、クエ鍋をJRの駅に広告が貼ってありましたが、旬は冬で、クエと称して、価格の安いアブラボウズの切り身を真空パックでインタ-ネットで通信販売していた業者がテレビレポ-タ-と行政指導によって、偽装装表示をその業者の社長が認めた様に、まだまだ、偽物のクエが出回っている様です。 

18th_june_2008__11 コノシロ:魚の成長度合いによって、4cmから5セcmが新子(シンコ)、7、8cmから10cmが小鰭(コハダ)、12cmから13cmがナカズミ、15cm以上がコノシロです。新子の値段が一番高く、その次が小鰭と大きくなるにつけて、値段が安くなります。 寿司店で新子、小鰭やナカズミが酢締めされ、寿司ネタとして食べられ、コノシロは塩焼きにされたります。

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一人旅 in 九州・鹿児島 (3) - 1

昨日は飲み過ぎたので、ホテルの朝食はパスし、ブログを書いてから、桜島まで足をのばそうと思ってホテルを出ました。 

18th_june_2008_ 昨日の夜中に起きて、お水を沢山飲んだ為、塩分が出てしまい、食欲が出て、ラ-メンの匂いに誘われて、鹿児島中央駅の西口にある、お店に入りました。 実は2008年6月16日の午後8時過ぎに食べた豚骨ラ-メンのお店と、姉妹店である事が判りました。 チャ-ハン付きラ-メンを頼み、テ-ブルの前に、無料の大根の塩漬けが置いてあります。 小皿にとっていると、ラ-メンが出てきました。 おぉ~、チャ-シュ-が3枚もあって、豚脂をからからに揚げたものをふりかけ、シャキシャキのもやしとメンマらに揚げものと、ネギと一緒にふりかけた、全く同じ盛りつけでした。 同じ豚骨味でしたので、とても美味しかったですが、ミニチャ-ハンでなく、かなり量が多かったですが、もったいので完食しました。 脂とカロリ-の摂り過ぎだ~。 

18th_june_2008__2 鹿児島中央駅の西口側の構内に焼酎の広告の看板が目に入りました。 鹿児島産の焼酎の紹介で、かなりの数の蔵がある事が判ります。 焼酎もブ-ムで終わることなく、焼酎党が生まれ根付いた感じで、これからも品質を落とすことなく(日本酒の様になってはいけません。)粛々と焼酎造りに励んでほしいものです。

18th_june_2008__3 鹿児島中央駅の東口側で、ここから九州新幹線が新八代まで走っています。 明日は、この新幹線と特急で、熊本に移動する事になります。

18th_june_2008__4 甲突川(こうつきがわ)に架かる、高見橋を渡ると、「維新ふるさと館」の案内板がありましたので、桜島に行く前に立ち寄る事にしました。 その甲突川に沿って、細長い公園があり、そこにモニュメントがで~んと立っていました。 戦災復興記念碑で、第二次世界大戦の終結が間近に迫った、1945年3月18日から、8回も鹿児島市が爆撃された為に、尊い人命が奪われ、市街地の93%を消失して、終戦を迎えたそうです。 一丸となって復興に全力を注ぎ、並々ならぬ鹿児島市民の力と関係者の努力を讃え、鹿児島市が益々発展する事を祈った碑です。 北海道から沖縄まで、大都市のほとんどが爆撃された日本の過去を通して、戦争の悲劇を決して、忘れない様に語り継いで行く事が必要と思うです。

18th_june_2208_ その記念碑を過ぎると、「維新ふるさと館」が見えてきましたが、当館手前に、甲突川に架かる橋がありました。 木製の橋なんです。 勿論、内部は鉄骨構造と思われますが、木製の板が、鉄の部分を隠しています。 木製の橋なので、写真を撮らせて貰いました。

18th_june_2008__5 「維新ふるさと館」の入場料金は、300円でした。 

18th_june_2008__6 「維新ふるさと館」の入り口全体の写真です。        

18th_june_2008__7音や光や英雄達の等身大ロボットを使い、わかりやすく解説する、地下の「維新体感ホ-ル」では、精密に作られたロボット人形が、舞台から上がって来て、白熱した話のやりとりや当時の背景の解説とを交えながら、薩摩の歴史を大変上手に説明していました。 又、他のコ-ナ-には、コンピュタ-が置いてあり、タッチ画面で、瞬時にいろいろと歴史的背景英雄達の人物紹介など検索が出来る様なっており、飽きる事は全くありません。 黒い布を被って使う、古い写真機、モ-ルス信号機、蒸気エンジンの模型、縮尺した大砲の模型、大砲の弾などが展示され、それらの展示品から想像をふくらませて思い描く事が出来、明治維新への変遷は、近代科学の始まりでもあった訳です。

18th_june_2008__81/2の大砲の模型ですが、島津藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)の命で作られた、日本初の工業団地、「集成館」で鋳造されたそうで、80ポンドカノン砲(砲弾の重量が80ポンドで36kg)に丸い砲弾を詰めて、藩英戦争に使用されました。 鹿児島港に停泊した、イギリスま軍艦はア-ムストロング砲を用いてロケット型の砲弾を打ち込み、その最新式の大砲と、その威力の差がありましたが、何とか、イギリス船を追い払う事が出来たのは、薩摩藩の大砲の位置が良かった事と日頃の訓練の賜と言われています。

18th_june_2008__9 13kgのロケット型砲弾が、砲筒に溝が切ってあるア-ムストロング砲に詰められて、その砲弾がイギリス艦船から4km先まで到達したのに対して、12kgの球型の砲弾を砲筒に詰めて2km以内の様ですから、命中率が悪るかったと言われています。 十文字砲、80ポンドカノン砲(英語で大砲の事をキャノン、カノンcannonと言います。)150ポンド(78kg)ボブカノン砲に、それぞれの球型砲弾12kg、36kgや78kgそれぞれの大砲に利用した様で、島津藩の砲門の総数は92門で100カ所から、イギリス艦船を打ち続けました。 かたや、7隻のイギリス艦隊は、89門で応戦し、2日間の戦いでした。 写真の手前には、それぞれの砲弾がどの位重いのか、体験ができる様に、手で引きあける事が出来ます。 

18th_june_2008__10 日本船と外国船の区別をする為に、日本にも、船旗が必要と島津藩から徳川幕府に強く働きかけ、一悶着あったそうですが、1854年7月11日に幕府は、全ての船に対して、総船印として「日の丸」を布告したと説明されています。

18th_june_2008__11 又、日本の国歌として制定れた、「君が代」の初代は、薩摩人が歌詞を書き、薩摩の軍隊作りに際に関わった、英国人の軍楽隊長のジョン・W・フェントンが申し出で作曲されたそうで、後にこの初代の「君が代」を1869年(明治13年)に楽曲の改訂があったそうです。

18th_june_2008__16 多分、島津藩の「集成館」で作られた帆船の模型がありましたが、船尾には、十字の島津藩の家紋の旗と日の丸を掲げて航海した様です。

18th_june_2008__13 「維新ふるさと館」を後にして、歩き始めと、民間の駐車場の隅に、あでやかに咲いている、ハイビスカスの花が咲いていました。ハイビスカスは、マレ-シアの国花ですので、やはり南国情緒があります。

18th_june_2008__14  鹿児島中央駅から、桜島フェリ-が発着する鹿児島港まで、徒歩で行きました。 種子島までのフェリ-発着所や貨物船のバ-スもあり、鹿児島港はとても広い港でした。幸い、道路標識が整備されていますので、迷う事なく、桜島フェリ-発着所に着きました。 すごくモダンで、空間も大きくとった大きな建物で、エアコンも良く効いていました。

1_18th_june_2008_24時間運行の大型フェリ-が鹿児島港と桜島港を往来していますが、大人一人片道150円で、高齢者用運賃も設定してありました。 500-750人乗船出来る、大型フェリ-6隻が常に24時間ノンストップでサ-ビスしている事に大変驚きました。 朝から午前中と夕方には、10分間隔で出航している事も、又びっくりでした。 写真は、今乗船しているフェリ-から、今出航した船尾を撮りました。 私の乗船した船も10分後には、出航です。                 

2_18th_june_2008_ まだ停泊している、4階建てのビルの高さ位ある、船上の展望台からの眺めは、桜島を取り囲むすばらしい景色と、白い綿飴を伸ばした様な雲と、青空のコントラストが良いです。

3_18th_june_2008_ 船上の操舵室で、まだ船長さん達がもうすぐに、姿を現します。

18th_june_2008__15 広い船内には、誰もいませんでしたので、2枚撮りましたが、此方の写真の方が、全体を観る事が出来ますので、此方にしました。

1_18th_june_2008__2  桜島の全体が見えてきました。

2_18th_june_2008__2 桜島港から鹿児島港に向かうフェリ-をこちら側のフェリ-から撮りました。

3_18th_june_2008__2 右側にフェリ-が停泊しています。 乗船時間は、およそ25分程度ですが、その隣に私の乗った本船も入港します。

4_18th_june_2008_ 下船して、まっすぐにレストランに直行し、かつカレ-を注文しました。 昔のお袋を思い出す味付けで、涙が出そうでした。

5_18th_june_2008_ 桜島レストハウス内に、お土産を売っていますので、気さくなおばちゃんに、まけてやると言われ、縦縞模様の紬の半袖を買い、その後にテ-ブルに運ばれた、かつカレ-を食べたのでした。

6_18th_june_2008_ この後に桜島フェリ-の船着き場のすぐ横にある、水族館へ立ち寄る為に、半袖を買って、カレ-を食べて、次のフェリ-で戻る事にしました。

7_18th_june_2008_ 帰り船から観る桜島のほぼ全景です。

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2008年6月17日 (火)

一人旅 in 九州 (2) - 5

鹿児島市内小料理屋さん:ホテルの前にある小料理屋さんが気になりました。 実は、焼酎の飲み放題のお店なんですよ。 それでホテルでシャワ-を浴びて、さっぱりしてから、そのお店は向かい側のビルの一階にあり、他のお店と間仕切りされていますので、ビル内の細い通路を歩いていくと、緑色の提灯が、小料理屋さんの店の玄関先に吊してありました。 この提灯は、地元の食材や国内の食材を使った、お料理をお出しする目印なんですね。 (食材は、みんな国産なのよと、言われていましたので、多分提灯に星が5つ書いてあったかもしれません。) それですごく気を良くして、そのお店の戸をあけましたら、明るく可愛らしい若い女性スタッフが、カウンタ-席に誘導してくれました。happy01       焼酎飲み放題のコ-スで、3980円と言われたと思いますが、焼酎の銘柄探しで、上の空で聞いていました。 結局、冒険をせずに、定年前に鹿児島県川内市(せんだいし)で良く飲んだ、「島美人」のお湯割りを頼みました。 突き出しと12種類のお料理が運ばれたと思いますが、酔ったせいか、料理の写真の数点がピンぼけでしたので、それらは除外し、添付ませんでした。

1_17th_june_2008__7 枝豆が出て、隣のお客さんが、もっと緑色を出すには、塩加減やゆで方がどうのこうのと言いながら、又、茹ですぎとか言いながら、その枝豆を戴いていました。 私は、充分美味しい思いましたが、食感や味付けが、そのお客さんには、合わなかったのかもしれませんね。 焼酎専用グラスに5:5と6:4と書いてありますので、まずお湯を5の線まで入れてから、焼酎をなみなみと注ぎます。これで55のお湯割りが出来ます。 多分タケノコ酢みそ和え、そして、とろろ芋の千切りが続き、どれも焼酎に合い大変旨いつまみになります。

2_17th_june_2008__4 少し堅めの冷や奴は、甘タレがかけて、香菜がトッピングしてあり、これも美味しかったです。

3_17th_june_2008_ マグロ、多分イナダとタコの刺身で、刺身は最高です。

417th_june_2008_ 有田焼の器に入った、シャキシャキした食感で、タケノコかもしれません。

5_17th_june_2008__2 おからですので、体に良いのです。 少しピンぼけになって来ましたね。

6th_june_2008_ お店のママさんに聞いたら、此方のタケノコは、大名竹の子と言うそうです。 

ママさんが、私の左側のお客さんの二人とも話したりしますので、飛び入りで、そのお客さん達とも、私も話をする機会が出来、一期一会になるか、又は再会するか、先の事は不明ですが、新しい人との出会いがありました。 そのお二人は、某テレビ局の部長さんのTさんと、Tさんと同級生で、内科医になられたIさんで、いろいろと雑談させて頂きました。 慶応ボ-イのTさんの奥様が、神奈川県の出身で、私も神奈川県で育ちましたので、話は止めどなく広がって、楽しい一時を過ごす事が出来ました。 Iさんは先にご帰宅され後に、Tさんから名刺を頂きましたので、後日、メ-ルする事をお約束して、Tさんとお店で別れました。 Tさん、Iさん、有り難う御座いました。(threemobaqでした。)

7_17th_june_2008_  まだ、お料理は続きます。シラスとごまの和え物です。

8th_june_2008_何でしょうね。 甘かったと思います。

9_17th_june_2008_ 煮物で、完食です。

10_17th_june_2008_ 最後にラッキョウです。

My_way_17th_june_2008_ ホテルの隣のスナックで、カラオケを数曲歌い戻りましたが、長い一日でした。

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一人旅 in 九州 (2) - 4

鹿児島市城山公園:火山噴火物によって出来た、高さ107mの丘で、西南戦争で逃れてきた、西郷隆盛はこの城山で自刃したと語られています。 城山公園の入り口が、照国神社の左側から、登って行く事が出来ます

17th_june_2008__5 その道路脇で、2008年7月13日に鹿児島知事選がある様で、その掲示板を撮りました。

17yh_june_2008_城山公園への道を入ると、二軒のラブホテルを通り過ぎジグザグの急な階段を登っていますが、途中で一休みしないと息がきれしまう、急な階段でした。 視界が開けた場所で一枚撮りました。 鹿児島市内と鹿児島湾沖の桜島が、うっすらと見えます。 一時止んだ雨上がりでしたので、快晴ならばもっとはっきり見えると思います。 桜島へのフェリ-が頻繁に行き来している事を、博物館の親切なスタッフさんに教えて貰ったので、出来れば、明日乗船したいと思っています。

17th_june_2008__6  やっと登り終えたら、視界が開けて、なんと大きな駐車場がありました。 車で登れる道路も、ゆっくり登れる遊歩道もあったのでした。 勿論、帰りは遊歩道を利用する事にしました。 こころを癒やしてくれる動物も見つけました。 真っ白な野良猫さんです。 ネコに餌をあげない様に禁止札が立っていましたが、難しい問題です。  

1_17th_june_2008__2 駐車場から少し歩くと、城山公園の展望台があります。そこから、鹿児島港と桜島が、うっすらと見えます。 又雨が降りそうな気配で、雨の山道は足下が悪いですから、写真を撮ってすぐに下山する事にしました。

 

2_17th_june_2008__2 遊歩道を歩き出すと、又 違うネコさんが、雨上がりですので、地面がぬれていますから、杭の上にちょこんと乗っています。 

17th_june_2008__7 遊歩道になっていますが、楠の巨木や亜熱帯性植物が生い茂り、森林浴をしながら坂を下ります。

 

17th_june_2008__8 下る途中で、「近衛の水」(このえのみず)と書かれた看板が目に留まりました。1723年に第22代島津藩当主、島津継豊(しまづづぐとよ)の命によって、城山の水源から、トンネルを掘り、その湧水の水圧を利用して城下まで引水をした水道施設が作られたそうで、その後は、1839年に第27代島津藩当主、島津斉興(しまづなりおき、島津斉彬の父親)によって、石をくり抜いた石管を繋げて、要所には、箱水と呼ばれる貯水槽を設け、大幅に改良し、鶴丸城(鹿児島城)のみならず、城下の町人も自由に使う事が出来たそうで、その水道跡です。 

1_17th_june_2008__3 遊歩道も下りきると、鶴山城址に出ました。そこで驚いたのは、今の季節に、何と蓮の葉が一面にお堀を覆っており、ピンク色の蕾が葉の間からあちこに頭を出しています。 数日後にすばらしい花をさかせる事でしょう。 帰宅する前に、もう一度訪れたいと、強く思うのでした。     

1_17th_june_2008__4 鮮やかなピンク色の蓮の蕾です。 トンボも飛び交い、初夏の暑さで、下着とシャツは汗で濡れています。     

2_17th_june_2008__3 蓮の蕾です。                          

1_17th_june_2008__5 鶴丸城址:少し移動して、歴史と文化の道側に来ますと、鶴丸城址の石碑と石垣が見えます。             

17th_june_2008__9 その橋と石垣の一部です。

17th_june_2008__11 石垣と蓮の葉とがすばらしい風景を作っています。

17th_june_2008__10 城址ですので、第7高等学校造士館、鹿児島大学医学部などがありましたが、現在は歴史資料センタ-として黎明館が建てられています。 今、午後5時前ですので、もう閉館時間と思われ、拝観は次回にする事になります。 黎明館の写真です。

1_17th_june_2008__6 鶴丸城址の城壁の一部が修復されていますが、石同士の間隙が少ないので、近年に修理された様にも見えます。 もしかしたら藩英戦争の時に大砲の弾で石垣が損傷した為に、修理されたのかもしれません。 

ホテルに帰りシャワ-を浴びて、夕食を食べに出かけます。

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一人旅 in 九州 (2) - 3

17th_june_008_ 鹿児島県立博物館所有の考古資料館:石造りの建物ですが、修理が必要の為に、立ち入り禁止の札が貼ってありました。 手前の橋からは、小川が流れ、30cm位の大きさの鯉が沢山泳いでいました。 もし中国だったら、捕獲して、きっと唐揚げのあんかけにして食べられてしまう恐れがありますが、この地で育っているので、鯉は安心して優雅に泳いでいます。 

17th_june_2008_ その橋の側で、自分の写真を撮りました。 何時も同じ格好をした一人旅の服装です。帽子は、夏用で風通しが良く、足腰を鍛える為に、パソコンや小物を詰めた、6kg前後の重さのディバックを背負って歩きます。 靴もメッシュの生地ですので、風通しが良く、膝の保護為に、クッション性も良いです。 毎日半日程度、散策しながら歩きますので、下着とシャツは汗でびっしょりになりますので、夕方に、ホテルで必ずシャワ-を浴びてから、街に出かけて、焼酎を飲みながら夕食を摂ります。

鹿児島市照国神社(てるくにじんじゃ):島津家28代当主、島津斉彬(しまづなりあきら)は、1809年4月28日に父親の正室の長男として、江戸の薩摩藩邸で生を受け、当時では珍しく、乳母でなく、その母親(正室、周子)によって直接養育され、曽祖父の影響で洋学に興味を持った為に、所謂、「西洋かぶれ」に観られ、藩内を二分する紛争の種にもなったと言われています。 又、異母兄弟である、島津久光(しまづひさみつ、父親の側室、由羅、ゆらの息子で、江戸から京都に向かう行列に馬で横切ろうとした、イギリス人の4人に対して、「切り捨て」と家来に命じたとも言われ、イギリス人3人が殺傷された生麦事件に関わったり、又、幕末の薩摩藩の事実上の最高権力者になり、意見の異なる西郷隆盛を遠島(島流し)させたり、 公武合体運動の挫折から倒幕の決断へと変わっていきました。)を当主に据えたい久光派と斉彬を当主にしたい派と藩内で紛糾し、斉彬派は、当主の側室と、その息子の久光の暗殺を画策したが、情報漏れで未遂に終わり、首謀者達13名が切腹し、50名ほどが遠島や謹慎に処せられましたが、仲介を頼み、そのお由羅事件を収拾し、その責任を負う形で、1851年に斉彬が父親から家督を譲る事になります。ですが、すでに長男の斉彬は42歳になり、1858年8月23日(安政5年7月16日)に急遽病死の為に50歳の生涯を閉じましたので、7年間の島津藩当主だった訳です。
当主に就任するとすぐに、藩の富国強兵の為に、西洋式船の造船や反射炉、溶鉱炉を建設したり、地雷、水雷、ガラスやガス灯の製造などを手がける、集成館事業を興したり、土佐藩の漂流民だった、ジョン万次郎が、アメリカから帰国すると便宜をはかったり、日の丸を日本船章にすべきだと、国旗の必要性を幕府に説き、そんな歴史があり、今の日の丸が日本の国旗になっていきます。又帆船に必要な帆布を作る紡績工場も造ったり、薩摩藩の下級武士階級の西郷隆盛や大久保利通を登用して、朝廷との政局で関わりました。 その島津斉彬を祭ったのが、この照国神社で、鹿児島県下の神社の中で、照国神社の参拝者の数が最も多いそうです。

17th_june_2008__2 大きな鳥居ですので、両側の大木の小枝や葉が生い茂っている為に、鳥居がかなり見えません。そこで、道路の横断歩道を渡りながら道路の真ん中付近から、撮りました。横断歩道とはいえ、車道ですからちょっと緊張しました。

17th_june_2008__3 鳥居をくぐり、階段を上がると、立派な神門が見えます。

17th_june_2008__4 その神門を潜ると、拝殿があります。                        

1_17th_june_2008_ 島津斉彬の銅像:拝殿に向かって、右側を1分程度歩いていくと、大きな境内になっていて、見上げる様な高い銅像があります。 

2_17th_june_2008_ 拡大写真です。

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一人旅 in 九州 (2) - 2

1_17th_june_2008_ 鹿児島県立博物館:小雨が降り続いていますので、西郷隆盛像の近くにある鹿児島県立博物館に入る事にしました。 当館の入り口では、入場者が県内か県外のアンケ-トをとっていました。 入場料が無料で、館内スタッフさん達はとても親切な対応をしてくれています。 展示内容から、幼稚園児達も沢山来館してるのを、後で納得しました。 大阪府の橋本知事が財政赤字の改善の為に、大ナタを振るい、この種の展示館が閉鎖されようとしていますので、当館内のあるスタッフに、雑談を交えながらその事をそれとなく聞いてみました。 今のところは当館は大丈夫ですと、笑いながら答えてくれましたので、私もほっとしました。                                                1b_17th_june_2008_ 一階には、いろいろの生き物を水槽にいれて、飼育され、それぞれの生態について説明書きがありました。     

2_17th_june_2008_ 香る虫たちと題して、アメンボの紹介が目に留まりました。 草むらにいるカメムシはとても臭いですが、水性カメムシやアメンボも臭いを出す様で、飴の様な甘い香りの為か、名前がアメンボとは、学者さんもうまいネ-ミングを考えますね。                            

3_17th_june_2008_ 生きたアメンボが見あたらないので、標本を撮りました。

4_17th_june_2008_ ナマズは、60cm位まで大きくなる様で、日本全国、朝鮮半島、台湾からベトナム北部まで広く分布しているとの事です。                               

2階では、鹿児島の川と湖沼を、桜島の噴火、鹿児島の山について、パネルと模型を使い、うまく展示してありましたし、手で触れる体験が出来る部屋もありました。 それらのほんの一部を写真に納めました。                                    5_17th_jne_2008_ エビやカニなどの甲殻類が展示してありましたが、食料にされている甲殻類ですので、缶詰や足などと加工された姿しか、観ていない幼い子供達も多いので、甲殻類の全体の姿を観察するには良い機会となるはずです。             

6_17th_june_2008__2椰子ガニで、私も実物は初めて見ました。 確か夜行性で、身も美々とか言われています。             

7_17th_june_2008__2 甲殻類の隣には、シロクマとウミガメの剥製があり、動物園の生きたシロクマは少し黄色みを帯びた毛で覆われていますので、剥製のシロクマの毛はちょっと白すぎます。    

8_17th_june_2008_ 野鳥の剥製もありましたので、向学の為に、撮りました。ヤマガラです。                          

9_17th_june_2008_ カケスと言う野鳥ですが、演歌歌手、春日八郎の唄に 「山のカケス~が鳴いていた。一本杉の地蔵さんさんはよ~」と歌っていましたので、一体どんな野鳥かと思いましたが、色彩も豊かな綺麗な鳥です。 そう言えば、母校の友達が、二次会で「別れの一本杉」を唄い、しんみりと聞かせて貰いました。              

10_17th_june_2008_ ゴイサギは、我が町でも観られますが、この標本の様に間近で観られませんので、良い機会ですので、写真を撮りました。                              

11_17th_june_2008_ ササゴイも我が町の田んぼで、観ましたが、その時は名前が判りませんでした。 頭の羽の一部長くなっているのが特徴で、ゴイサギより小さいです。             

12_17th_june_2008_ カワゼミの美しさは定評がありますが、残念ながらまだ本物には出会っていません。           

13_17th_june_2008_ 真鯛の仲間達として展示されていますが、刺身でも煮魚で大変に美味しく、腐っても鯛と言われるゆえんです。               

17th_june_2008__3 鹿児島の特産品に、黒豚があげられますが、多くの街のレストランで黒豚料理と本格焼酎を目玉にしています。 その黒豚の品質改良の過程を展示してあります。 肉が美味しく、雑食で何でも食べ、多産系で、集団飼いが出来たイノシシが、家畜化され始め、イノシシが祖先であった豚は、すでに6000年前のメソポタミアで養豚が始まっている、家畜の長い歴史があったのです。  鹿児島では、1620年ごろから、南方から移入された黒豚を飼い始め、1890年(明治25年)に肉質の優れたバ-クシャ種を飼育したが、発育が遅く多産系で無い為に、飼育頭数も減少した様です。 1982年(昭和57年)に、県の畜産研究所の黒豚とアメリカ産のバ-クシャ種とかけ合わせ、品質改良に取り組み、写真の一番後ろの黒豚が、6世代の雌だそうです。 真ん中が古い黒豚で、手前が豚の祖先のイノシシです。 イノシシの前足部が重量の60%をしめ、後ろ足部分が40%でしたが、豚の背中と腰の部位が特に美味しい為に、この比率を変えたく改良され続けられました。 その結果、6代目は、前足部が40%、後ろ足部が40%になり、勿論全体の体重も増え、胴が長くなったので、イノシシに比べて骨が2本増えたとの事です。 確かオランダの畜産研究所で、豚をかけ合わせ続けて改良を進めて、豚の胴が長くなって、肉の量も増えました。 しかし、ある時、狂牛病の様に、自分足で立つ事が出来なくリました。 その為に、次のかけ合わせにと、世界中の豚を調査し、立派な豚を中国を見つける事が出来ました。 その豚は、なんと、水草、残飯、人の排泄物まで、なんてでも食べる、野豚でしたので、勿論、体型も大きく、家畜には最適な品種で、餌のコストがかからない豚だったのです。 肉の美味しさを追求し過ぎや、効率の追究で、今の世の中の養豚業もコストがかかる産業になってしまいました。              17th_june_2008__4                      次の鹿児島県の特産品は、サツマイモで、日本の生産量の40%を鹿児島で生産されているのです。 鹿児島の次が、茨城県で、干し芋に加工して販売されています。 そして次が千葉県だそうで、鹿児島で生産されているサツマイモの種類には、シロユタカ、ベニサツマ、コガネセンガンがありますが、シロユタカは澱粉用、ベニサツマは料理用、コガネセンガンは料理用、加工用と焼酎用に利用され、焼酎ブ-ムが続き、その為にゴカネセンガンの品薄が品薄になり、まさに黄金なのです。 写真は、コガネセンガン、別名、ジャンボイモです。                                                                           17th_june_2008__5 主に台湾から、輸入された香り米に、白こうじ菌を混ぜて、米こうじを造り、ここまでは、日本酒造りと似ていますが、その後は、その米こうじに水と酵母菌を入れて、一次発酵させて、一次もろみを作ります。 細かくしたコガネセンガンと一次もろみと水を加えて、二時発酵させ、二次もろみを造り、蒸留機と冷却機を使って、焼酎を取り出します。 九州には大酒豪家が沢山いますし、焼酎ブ-ムも重なる背景がある為に、鹿児島県はサツマイモの生産がに日本一なのも頷けます。                      17th_june_2008__6有名な桜島大根は、巨大で20-30kgになるそうで、漬け物の加工に利用されます。

17th_june_2008__2 バイキングのお店に入りましたが、スィ-ツのバイキングとそれプラス食事のバイキングでしたので、生ビ-ルを頼んで、一休みです。 スィ-ツは食べませんでしたので、少し高くつきました。 

17th_june_2008__3又、雨が降ってきましたので、天文館で喫茶店に入り、アイスクリ-ムがトッピングした、アイスココアを頼み580円で、ココアは、甘みを抑えた大人の味でした。 原料のココアの値段も、高騰していますので、その苦みが強いのは、ココア原料の量も多い事を意味しましますが、角型の氷も多いので、結果として、適正価格と思われます。

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一人旅 in 九州 (2) - 1

17th_june_2008_ JR鹿児島中央駅側のホテルユニオンの朝食は、無料のバイキングですが、私は、和食が好きですので、まずご飯とみそ汁です。 ご飯にタラコのふりかけをかけたら、何と期待していなかった納豆がありましたので、ラッキ-です。 梅干し、焼き海苔、千切りキャベツ、漬け物、ゆで卵を取った後に、明るく気が利く年配の女性スタッフからお茶を戴きました。 朝は晴れ間もありましたので、気持ちの良い一日が始まります。                          

1_17th_june_2008_ 当ホテルから歩くとすぐに、JR鹿児島中央駅東口に、「若き薩摩の群像」が見えます。 銅像の若者達は、薩摩藩の若き19名の藩士達で、藩命により、英国へ留学して、学問を学び技術を習得し、帰国後に偉大な業績を残した留学生達を讃える為に、1982年(昭和57年)当時の鹿児島市長の命によってその銅像が建てられました。 薩摩藩が藩士を1865年に英国に留学させた背景には、次の事があげられます。 まず、イギリスが、清国(中国)から、紅茶や陶器を大量に輸入し、イギリスからは時計や望遠鏡などしか輸出がなかった為に、貿易不均衡の状態が続ていました。 そしてイギリス国内では、植民地だったアメリカの独立を阻止する為の戦争費用の準備と産業革命の為に、相当な資金が必要で、イギリスの国策として銀の流出を禁止していました。 その為に、紅茶や陶器の代価を支払う事が難しい状況だったのです。 そこで、イギリスの植民地だったインドで栽培をした、アヘンをイギリス人商人、ジャ-デンマセソン商会(1863年に長州藩の伊藤博文や井上肇等がイギリスに密航させる仲介をしましたが、アヘンの密売や密航の仲介をする商社の理念とはなんぞやと思います。)が、密輸出し続けた三国貿易によって代価を相殺する事が起きていました。 度々、アヘン禁止令を発する効果もなく、アヘン中毒患者を大量に抱えた清国は、イギリスと戦争するまで発展して行きます。 それが1840年から2年間続いたアヘン戦争でした。 敗戦した清国は、莫大な賠償金の要求と香港の割譲を余儀なくされ、不平等条約を締結されたのでした。 そんなアヘン戦争の実態をある程度つかんでいたのが、島津藩主の島津斉彬(しまづなりあきら、1809年4月28日に生まれて1858年8月23日没)で、日本も清国の二の舞になる事を危惧していました。 そしてもう一点は、1862年9月14日(文久2年8月21日)に、島津久光の行列が、神奈川県横浜市鶴見区生麦を通りますが、その行列を、乗馬しながら横浜在住のイギリス人4人が横切った為に、「無礼者、切り捨てごめん」の無礼討ちになり、一人が殺害され、2人に負傷を負わせた、所謂、生麦事件がありました。 その事件の関係者の処罰と賠償金(幕府に10万ボンド、24万両を、薩摩藩に2万5千ポンド、6万両をイギリスから要求され、幕府は支払い、薩摩藩は拒否しました。)を薩摩藩が拒否した為に、1863年7月2日と3日2日間、薩摩藩と英国との戦い薩英戦争)がありました。 鹿児島湾に停泊した7隻の軍艦からなるイギリス艦隊からの大砲の弾が、鶴丸城(鹿児島城)城内まで、打ち込まれた為に、武器としての火器の威力の差と近代技術の進歩を見せつけられたからでした。 そして、徳川幕府は、鎖国政策をとっていましたので、当時としては、密航ですので、イギリス人商人のグラバ-(長崎にクラバ-邸があります。)の手を借り、藩士達の本名も伏せて偽名を使用し、1865年4月12日に、串木野羽沖から、本船が出航し、66日間の航海で、ロンドンのサザンプトン港に到着したそうです。 アイスクリ-ム、高層建築や汽車に大変驚いたそうですが、一番のカルチャ-ショックは、オランダ人夫婦の濃厚なキスシ-ンだったと伝えられています。 留学生の団長だった新納久修(にいろひさのぶ)は、紡績機械をイギリスで購入し、日本初の紡績所を建設しました。 又、当時のフランスは、徳川幕府を支援していましたが、松木弘安は、日本を近代化する為に、天皇制国家の樹立をイギリス外務省に強く働きかけた為に、イギリスの対日政策も、大きな影響を受ける事になり、薩長の倒幕運動をイギリスが支援する事になります。 1867年1月に、薩長連同盟が締結されますが、そのとりまとめに一役買ったのが、坂本龍馬であり、1867年11月9日に、無血革命でもあった、徳川幕府将軍、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)による大政奉還が京都で行われ、水戸黄門の時代劇でいんろうを見せるあの徳川幕府の葵の紋から、天皇家の菊の紋へと代わり、近代化を目指した明治政府へと繋がっていくのですが、当時の留学生達は、更にアメリカやフランスに留学し、帰国後に明治政府に仕えたそうです。                                                   

1_17th_june_2008__2 JR鹿児島駅前から始発になる、市電が頻繁に走っていていますし、バスの便も良く、鹿児島市民の足として利用されています。 街に市電が走ると絵になりますし、線路内に芝生を植えて緑化にも鹿児島市が力を入れています。

       

2_17th_june_2008_ 黄色の同型の市電で、乗客が下車しています。

    

3_17th_june_2008_ 新型の市電も走っています。

1_17th_june_2208_ 甲突川(こうつきがわ)の河岸に、薩摩藩士の大久保利通(おおくぼとしみち、1830年9月26日に生まれ、1878年5月14日に暗殺されました。)の銅像が建っています。 薩摩藩士の西郷隆盛(さいごうたかもり)、長州藩士の木戸孝允(きどたかよし、別名、桂小五郎)と並んで、後に「維新の三傑」と呼ばれています。 薩英戦争後に、幕府から賠償金を借りて、イギリスに支払って、生麦事件を解決し、イギリスとの講和条約を結ぶ事になります。 その様な影響もあり、鎖国を続けている日本を開国する必要性を強く感じ、沖永良部島に遠島されていた西郷隆盛を呼びよせ、倒幕に力を一心不乱に注いた為もあり、薩長同盟へとつながり、大政奉還があり、明治政府の誕生へ歴史が動いて行ったのでした。 明治2年に明治政府の参議(「王政復古により成立した政府の役職)として就任し、版籍奉還や廃藩置県など政治家として携わり、政府内に内務省を造ったりし、その原型を今でも、とどめているのが、東京・霞ヶ関の官僚機構と言われているそうです。 朝鮮使節派遣を推進した西郷は、大久保と意見が異なった為に、西郷は故郷の鹿児島に帰る事になります。 そして月日は流れ、1877年(明治10年)に、倒幕の為に大久保と一緒に働いてきた西郷隆盛と熊本・大分・宮崎・鹿児島の士族(江戸時代の上級武士)達の不満によって、反乱が起こります。 これが西南戦争で、西郷隆盛の反乱軍と大久利通の政府軍とが戦い、官軍が勝利し、鹿児島の城山(公園)に戻った西郷はそこで自害をしますが、この様な悲運な出来事は、世の中にはかなりあると思います。 今思い出したのが、イギリスでウイスキ-の製造技術を学び、日本で初めて作った日本人がいます。 技術畑の技師と、販売担当の営業の二人が、一所懸命に国内販売に精を出しますが、それぞれの考え方が微妙に異なり、やがては、お互いに別れて、ウイスキ-作りをする事になり、その技師が北海道で、そして、その営業担当者は、京都に土地を求め、どちらの会社も今は大きく成長していますが、起業家同士の争いも、よく似ています。                                        2_17th_june_2008__2 銅像の上半身部分です。 話がそれましたが、大久保は、大型超高級ホテルが建っている、東京・赤坂の紀尾井坂にて石川県の士族の手によって暗殺された為に、東京・港区の青山霊園に永眠しているそうで、生前から為政清明(いせいせいめい、政治家は清くあるべし)をモット-した政治家だった為に、死後も8千円の借金があったと伝えられていますが、それに比べると、今の日本の政治家はねぇ。。。。と思ってしまいました。 

                  

                                  

17th_june_2008__2 甲突川(こうつきがわ)に架かっている、高見橋の欄干に、着物姿の女性像がありました。 もしや、島津斉彬の養女になった篤姫の銅像と思いましたが、どうも違う様です。(宿泊したホテル前にある、小料理屋さんで知り合いなったお客さんの説明では、違う女性と事でした。)



1_17th_june_2008__3 降ったり止んだりした雨は今は上がっていましたので、島津斉彬を奉った照国神社から少し離れていますが、西郷隆盛像があります。 巨大な銅像で、写真を撮りました。 やはり東京・上野にある西郷隆盛の銅像の顔に大変似ています。 しかし、一説によると、暗殺をおそれた西郷は、自分の顔を隠し続けてた為に、本当の顔の資料が残っていませんでした。 それで、イメ-ジで作った為に、今の銅像の顔ではないと言われていますが、本当の顔を判る人達は生存していませんから、きっと今のままの銅像の顔で、これからも日本の歴史の流れを続けていく事でしょう。                        2_17th_june_2008__3 今は自衛隊の駐屯基地になっている、千葉県・習志野で、1873年(明治6年)4月に近衛兵の大規模な演習があり、その演習を明治天皇が観閲し、陸軍大将であった西郷隆盛が、雨の中を一晩中、天皇をお守りした時の軍服姿をイ-メジして作られ、銅像の大きさは、5.275mです。

3_17th_june_2008__2 銅像とマッチしている築山は、延べ36000人の鹿児島市民の労働奉仕によって作られたそうです。      

 

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2008年6月16日 (月)

一人旅 in 九州 (1)

過去の日記は、ぼちぼちと書き足していくつもりですが、本日より、一人旅が始まりましたので、先に書き込んでいきます。 今回は、ANAのマイレジを使い、無料航空券で、羽田と鹿児島を往復する、九州一人旅の始まりです。

15th_june_2008_ 出発時間が、午後1時半の為に、少し早い特急電車に乗りこみました。 通勤時間帯は過ぎていますので、空席がありますが、次の駅で、ほぼ席は埋まりました。電車を乗り換えて、JR浜松町降りました。

16th_june_2008_ 浜松町駅のプラットフォ-ムのはずれに、「小便小僧」の銅像がありますので、機会があると写真を撮らせて貰いますが、今日は、浴衣を着せられて、帽子を被り、バケツと網を持っていますので、川遊びのイメ-ジですが、調子が悪いのか、あそこから噴水が出ていませんでした。 どうしたんでしょうね。 

                            

15th_june_2008__2 大型のPETボトルに、特性のお茶(自宅で、家内が煎じたお茶)を入れて、ス-ツケ-スに入れたままで、ANAカウンタ-で、預けた後に、売店で、お弁当を買い、ANAのラウンジに、入りました。ラウンジ内には、生ビ-ルの自動サ-バ-もありますので、飲んでいる搭乗者もちらほらとおりましたが、私は生ビ-ルの方が酔いが強いので、高級ウイスキ-の水割りにして、持参のつまみを食べながら、一杯です。 ご馳走様でした。 

15th_june_2008__5 まもなく搭乗時間ですので、出発ゲ-トへ行きました。 ピカチュウが描かれたANAが、羽田から福岡に飛び立つ前の光景です。 ポケモン(ポケットモンスタ-)のピカチュウのアニメが米国でも人気とか言われていますが、今は、国内では、何が人気なんですかしらね。     

                            

Edit_16th_june_2008_ ボ-イング社製、B7777-200、全長63.7m、幅60.9m、高さ18.5m、航空距離4300Km、414席の全日空のANA625便の後部座席の窓側の座席に座りました。当機は少し遅れて離陸しましたが、離陸後5分を過ぎると、パソコンとデジカメが使用出来ますので、機窓から、雲を突いて飛び出ている富士山を撮りました。 仕事をしていた現役時代には、この航路を、何十回と飛んでいましたが、何時も機内で仮眠をとっていたのが常でしたから、今日初めて、日本一の富士山を観ました。 すばらしい眺めですが、機内からですので、小さく可愛く写りました。                 

15th_june_2008__4  写真では、見えないですが、富士山の 手前が富士市で、その手前が、駿河湾になり、沼津市へと続き、伊豆半島の松崎市あたりが見えます。  

             

16th_june_2008__2 御前崎から、遠州灘が目に入りましたが、遠州灘はものすごく長いです。 はっきりとさせる為に、写真の色を自動加工したら、青色が強く出過ぎていますので、その分を差し引いて観て下さい。 

                        

15th_june_2008__3曇っている為に、下界はほとんど見えません。 機内のスカイ・オディオを聴きながら、書き込んでいますが、勿論、9チャンネルの青春歌謡グラフティを選択しています。紀伊半島を通過し、四国も通過して、九州地方の鹿児島空港に到着した。 九州地方に、北九州、福岡、長崎、有明佐賀、大分、阿蘇くまもと、鹿児島、宮崎と空港が8ケ所もあるのですが、福岡に隣接した北九州や長崎と阿蘇くまもとに囲まれた有明佐賀はどの様に集客をするのか、よけいな心配をしてしまいました。

15th_june_2008__6 雨の中を当機は、鹿児島空港に着陸をしました。 燃料補給関係者さん、整備員さん、地上スタッフさん、機長さん、副機長さん、キャビンアテンダントさん、管制塔関係者さん、機内掃除の方達等々の沢山の職業の方々による安全と運行の為に、日夜従事されていますので、当機も無事に到着した事に感謝した次第です。

              

16th_june_2008__3 空港から、1200円の乗車券を自販機で買い、特急高速バスの荷物置き場に荷物を入れて貰い、車内に乗り込みました。55分で、鹿児島中央駅前に停車しました。 

   

16th_june_2008__4 小降りの中を荷物を引きずりながら、10分位離れた、ホテルに到着です。

                                    

15h_june_2008_ 本格焼酎又は生ビ-ルのサ-ビス券と部屋の鍵を貰いましたので、ホテル内のレストランにちっと寄ってみたいと思いましたが、お昼に飲んでいますので、今晩はパスです。

                                 

16th_june_2008__5 雨の中を傘を差しながら鹿児島中央駅側の大型百貨店の地下にあるラ-メン屋さんで、ラ-メンセット、980円を美味しく戴いて、ホテルに帰りました。 此方では、大抵豚骨ス-プが多いのですが、やはり豚骨でした。

           

ホテルでは、無線LANで、サクサクとパソコンが動きますので、ストレス無しです。明日は、鹿児島城址に立ち寄ろうと思います。 小雨になった後に止んだので、明日は晴れると嬉しいのですがね。

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